ソフィア・コッポラの「プリシラ」の試写の帰り、私は地下鉄の青山一丁目の駅で降りて、青山墓地を横目に乃木坂方面へと歩いて行った。青山の「ウエスト」でお茶を飲んで、のんびり読書をしようと思っていたのだ。仕事のものも含め、三冊の本を持っていくつもりでいたが、二冊にとどめておいた。
私も御多分に洩れず、ハッスル・カルチャーに毒されているみたいだ。仕事に追われていて、本を読む時間が持てない。あるいは、自分で選んだ、自分の好きな本を読む時間がないと言うべきか。書評で取り上げるべき新刊書の情報が津波のように押し寄せてくる。映画やドラマも同じだ。
ここ最近は、遅れている仕事のせいもあって、溺れながら前に進んでいるような気がする。時折、波間に顔を出して、一瞬息をつく。そんな風に、少しずつ本を読んでいる。でも、そうやって命綱みたいに読んだ本のことは忘れないものだ。
2月29日は、普段の暦には存在しない日付で、思いがけなくポケットで見つけたコインみたいな日。今日の午後は自由に使っていい。そう決めていた。だけどせっかくやって来た「ウエスト」は満員で、十三人待ち。待合室のベンチに人がぎっしり並んでいた。ここで待っていても、豊かな時間は流れない。諦めて、地元の駅まで戻った。少なくとも、コーヒーの美味しいカフェはある。バナナブレッドが温められて出てきて、私はほっとした。
そこでずっと切れ切れに読んできたマイケル・オンダーチェの「イギリス人の患者」の最後の40ページを読んだ。美しくない文章がひとつとしてない、詩と人間の透明な悲しみでできているかのような小説だ。
ずっと昔、映画化作品の方は見たことがある。内容はだいぶ改変されていた。第二次世界大戦の終盤、爆弾処理班のシーク教徒の工兵が広島と長崎に原爆が落とされたことを知って、胸が張り裂けるような思いを味わう。アメリカの映画制作会社ミラマックスの手による映画版にはそのシーンはなかった。会社の意向で、彼がイタリアの古城を去っていく理由は別のものに差し替えられたという。
二冊の本を持ってきていたけど、鐘が鳴った後に空気を満たす静かな響きのような余韻に本を伏せて、ただ黙って、後はただ時間が過ぎていくのを見ていた。
だけど写真にはその次に読もうと思っていたミステリーの本だけが写っている。そんなものだ。