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同じ日の日記

わたしは今日をこう生きたという雑文/児玉美月

6年暮らした家の退去と母の乳癌闘病。映画で生を希求すること

毎月更新される、同じ日の日記。離れていても、出会ったことがなくても、さまざまな場所で暮らしているわたしやあなた。その一人ひとりの個人的な記録をここにのこしていきます。2024年2月は2月29日(木)の日記を集めました。共著で『彼女たちのまなざし 日本映画の女性作家』(著:北村匡平・児玉美月、発行:フィルムアート社/2023年)を刊行し、フェミニズムやクィアの視点を大切にした批評を書いている映画文筆家の児玉美月さんの日記です。

2024年2月29日は、6年以上暮らした家の退去日だった。2月は28日までのことの方が多いのだから、同じ家賃で1日分多く住めて得したな、などとどうしようもないことを考えながら、2月29日の終わりにこの日記を記している。部屋を片付けている途中、メリーゴーランドを小宇宙に閉じ込めたようなスノードームを発見した。スノードームだから球体のなかは水で満ちているはずなのに、中身は空っぽになっていた。本棚の本の上に置いていたもので、本は濡れていた痕跡もないから、ゆっくりと時間をかけて蒸発していったのかもしれない。このひとつのスノードームからも、6年を超える年月の長さを実感する。もう永遠に、この小宇宙で雪が降ることはない。

今日は管理会社に鍵を引き渡す日でもあった。いつも電話で対応してくれる女性の事務の方と、社長と呼ばれている男性の方が2名で到着した。玄関では社長が靴を脱ぎっぱなしの状態にしていて、それを後から入ってゆく事務の方がすかさず逆向きにして整えていた。事務の方のその所作は無駄なく流れるようで、おそらくこれまでそれを何度も繰り返してきたのだろうと想像させるには十分だった。社長はその直された靴の方を、当然のごとく振り返りもしなかった。もしも社長が2月29日の日記を書いたとしたら、こんなつまらない靴の話など決して出てこないだろう。日常ではほんのささやかな一場面も、すべてが一針ずつ縫い目をつくるように緻密にジェンダー化されていて、わたしはそれを耐え難く思う。

いつでも行けると思って入ったことのなかった家のそばにあるファミレスで、ひとりでプリンアラモードを食べた。卓上の注文パッドで頼むシステムに気づかず、店員さんを反射的に呼んでしまった。早くこのシステムに慣れなければならないのに、不甲斐ない。わたしのテーブルは角のテーブルのひとつ隣だった。角のテーブルに高校生の二人組が入ってきて、ソフトクリームをふたつ頼んだらしい。ネコ型ロボットが配膳してくると、椅子がテーブルを離れて少し道路側にはみ出していたためロボットは奥まで入っていけず、わたしの真横で止まってしまった。二人組は話に夢中でロボットが到着したことに気づいておらず、ソフトクリームが溶けていかないか不安になったわたしは声をかけようか悩んだけど、ただの記号でしかなかった自分がその二人組のなかで人間になれば、楽しい時間を遮断してしまうような気がして、早く気づいてくれるように心のなかで願うしかなかった。

実家に送るために業者にエアコンを取り外してもらい、配送会社に引き渡すのが、その家で最後になすべき仕事だった。新居へと向かう道で、いつもなら目に入らなかったはずの店が気になった。店のガラスには「大人のみ、大人同士の入店禁止」と書いてある。そこはいわゆる「こども食堂」といわれる場所なのだろう。遠巻きに覗くと、がらんどうの店内で、まだ小さな子がたったひとりで黙々とご飯を食べていた。どうしても気になって少し眺めていたら、降り始めた小雨が心の隙間に侵入して、鬱屈とした気持ちを滲ませていった。わたしが身勝手にその子の人生を空想して、身勝手にナイーブになっただけだ。その子はきっと学校からの帰り道、ふとお腹を空かせてそこに立ち寄っただけで、満腹のまま家に着いたらまた美味しいご飯に食らいつく。きっとそうに違いない。誰かにそういってほしかった。

6年以上暮らした家では数えきれないほどの出来事があったはずなのに、振り返ってみると、真っ先に思い出すのはやはり母の病気のことだった。引っ越してすぐに検診で母の乳癌が発覚し、その家で過ごしたほとんどの時間が、母の闘病と向き合う時間となった。癌を告知されたかかりつけの病院は自宅から遠く、正直とても古くもあり、入院のことなども考えるともっと綺麗で新しい病院が望ましかった。そこではすぐに手術ができるが、自宅からもっとも近い大きな病院だと3か月ほどの待ち時間が必要との話だった。悩んだ末に、近い病院に転院することを決めた。これ以降、病にかかるとつくづく選択の連続に苛まれるのだと思い知らされることになる。

無事に手術が終わって通院しているさなか、小さな事件が起きた。主治医は年配の男性医師だったが、ある日の診断で母が愁訴したところ、その医師が鼻で笑ったのだった。もともとろくに病状を説明してもくれず、無愛想な態度のその医師に対して不満を抱えていた蓄積も相まって、その件が母の心のトラウマになってしまい、それ以上そこで治療をつづけることが難しくなった。わたしはずっと母に付き添って隣でその様子を見ていたから、彼女の心情はよく理解できた。まず、病院側に転院を申し出る。すると主治医と話し合ってください、と突き返される。そこで今回の経緯を説明し、主治医とはこれ以上コンタクトを取らずに転院させてくれないかと掛け合った。ここまででもう、わたしたちは精神的に疲れ切っていた。

この経験を経てしばらく経ってから、仕事でたまたまアヌシェイ・フセインの『「女の痛み」はなぜ無視されるのか?』を読み、ジェンダーや人種などによって、病院で同じように痛みを訴えても、そこで医師から得られる信用や治療などが変わってしまうという記述に遭遇した。さらにその後、出版社からマリーケ・ビッグの『性差別の医学史』が献本で送られてきた。そこでもやはり同様の記述があり、すべてがつながっているように思えた。病院でも性差別は起こりうる。そもそも母が我慢強く、本当に痛いときにしか「痛い」といわないこと自体も、性差別の結果にほかならない。「痛い」ということが抑圧されてきたからこそ、慣れない行為への抵抗を誤魔化すために、少しおどけたような、冗談のようなニュアンスを思わず滲ませてしまったのかもしれない。それに医者は応じてみせただけだったのかもしれない。しかし長らく人生でさまざまな痛みに耐えてきた母が大病をして、そして病院で訴えた心からの「痛い」という言葉は、決して鼻で笑われるものではないはずだ。あなたが痛むとき、あなたは痛みを訴える権利があるし、誰もが平等に適切な治療を受ける権利がある。『「女の痛み」はなぜ無視されるのか?』では、もちろん無痛分娩などの話題もあがる。女性はこの社会で、あらゆる場面で、たやすく「痛い」と言えないようにされている。ときに、痛みを我慢することが理想とされさえする。医師にはそのことをほんの頭の片隅でいいから、置いておいてほしかった。だからあなたも、どこかが痛むときは近くにいる人にでも病院にでもいいから、「痛い」とすぐに伝えてください。身体でも、心でも。どうかそこに向かい風が吹きませんように。自分の痛みを説明するのは少し大変かもしれないけれど、あなたの痛みはとても大事なものです。

そして、さらに状況がよくなかったのは、母が乳癌の全体の1割しかいないトリプルネガティヴという種類だったことだった。乳癌は大まかに、ルミナル A型、ルミナル B型、HER2型、そして母のトリプルネガティヴの4つのサブタイプに分類される。転院前の病院では丁寧な説明を受けられなかったから、自分で結果の紙を見ながらなんとか調べて辿りついたのがこの名前だった。検索すると「予後不良」「ほかのタイプに比べて生存率が低い」「治療法が確立されておらず難しい」などといった結果が飛び交う。そして術後3年以内の再発・転移率がきわめて高い。わたしたち親子はそれぞれにトリプルネガティヴについて調べ、密やかに覚悟を決めていたように思う。

手術が終わり、全身の微細な癌細胞を殺すために抗がん剤治療が開始されたものの、アレルギー体質だった母はすぐに拒絶反応が出てしまい、結局予定されていた回数もこなせなかった。ただでさえ生存率が低いのに、と思うと居た堪れなかった。しかし抗がん剤による副作用は相当なもので、まず皮膚が赤く爛れて硬化していった。最悪な状況のなかでわたしたちは無理に笑おうとして、そんな状態の皮膚の写真を撮って「イグアナみたいだねえ」と言い合った。剛毛すぎると不満をこぼしていたはずの髪も、日に日に抜け落ちてゆく。母は人生で一度は金髪にしてみたかったんだといって、金髪のウィッグを治療がはじまる前に買って用意していた。しかし予想以上に似合わず、無難な茶髪のボブカットのウィッグで過ごしていた。手足の痺れも一日中おさまらず、毎日症状を緩和させるための薬は手放せない。生理も強制的に止まってしまった。ホルモンバランスが大幅に崩れ、過酷な状況に追い打ちをかけるようにして更年期に入った。陽が出ているあいだは全身から汗が止まらず、とてもつらそうだった。病院に更年期の治療に相談にも行ったが、母の乳癌の治療について説明すると、何もできないといわれ、なす術がなかった。不思議なことに抗がん剤は肌をとてつもなく乾燥させてしまうようで、わたしは治療期間、薬屋でいろんな種類のクリームをめいいっぱい買い込んで、夜ごと母の身体に塗りたくった。そのとき「もう死んだ方がマシだ」と背中越しに聞いた母の言葉は、未だに忘れられない。

でもわたしにとって何よりも過酷だったのは、短い感覚で行われる治療後の定期観察だった。検査結果でもし転移したといわれれば、それはもう全身に癌細胞がまわっており、治療ができる状態ではないことを指す。わたしにとってそれは死刑判決に等しい。病院に行き、検査を受け、そして診断結果を告知されるために診療室に呼ばれる。これを数ヶ月に一度繰り返す。診断結果を聞くまでの待合室での数十分は、震えるほど緊張してしまう。どうしてみんな、こんなことに耐えられるんだろう。なぜ母は、よりにもよってトリプルネガティヴだったのだろう。インターネットで見た「3年以内に転移」の文字に取り憑かれた。1年が経ち、2年が経ち、わたしは精神的にどんどんおかしくなっていき、ついに映画も観られない状態になった。映画を観ていると、不意に人が死ぬ。もしくは死に近しい描写が現れる。どの映画を観ていても、死が避け難くそこにあった。一度死を意識してしまうと、こんなにもすべての映画に死の要素が貫流しているのだと気づいた。それはわたしにはあまりにも暴力性が高く、映画を観ようとしても全身から血の気が引き、恐怖に震えてくる。いよいよ限界だとなったとき、心療内科で薬を処方してもらうに至ったのだった。

3年が過ぎたころ、母の具合が悪くなり、いつものように精密検査に入った。結果を聞きに行くその日は、いつもよりも予約の時間が早かったと思う。胸騒ぎがして早朝に目を覚ましたのに、母はもうひとりで病院に向かっていた。なぜこんな大事な検査結果の日に、ひとりで行くのか。どうしてわたしは置いていかれたのか。きっと母は何かを察知してわたしについてきてほしくなかったのだと思う。ひとりで聞くために、だから、何時間も早くに行った。そう思うと後追いすることもできず、布団の上でじっと母からの連絡を待つしかなかった。着信が鳴った瞬間に出ると、通話口の向こうで母が泣いているのがわかった。「癌だったよ」と一言だけだった。「だから一緒に行くって言ったのに!」とわたしはたしか怒鳴ったと思う。普段、怒鳴ることなんてほとんどないから、声の出し方が難しかったのを覚えている。気が動転して、そのときの記憶がほとんどない。家に帰ってきた母に、詳しく話を聞いてゆく。「癌ってどういうことだったの?」「再発だって」「再発っていうのは新しい癌ってこと?もともとの乳癌が転移したってこと?」とこまかく聞いていくと、どうやら全摘した乳房ではないもう片方の乳房の原発だった。そこで胸を撫で下ろした。再び乳癌になってしまったことはもちろん大変なことではあるけれど、もう治療のできない遠隔転移ではないのなら希望がある。

母は自分が死刑宣告を受けたから悲しくて泣いていたのではなく、自分の娘が乳癌になる可能性が高くはないと知って安堵して泣いていたらしい。母は保険が適用されたばかりだった遺伝子学検査も同時に受けており、それで遺伝性の乳癌じゃなければ、娘も乳癌になるとは限らないと医師から聞いていたとのことだった。乳癌だと知った母は、娘が必ずしも乳癌にならなくて済むかもしれないと知って泣いていたのだった。自分のことではめったに涙しない母らしかった。驚くべきことに、母の乳癌の再発と時期を同じくして、母の母、つまりわたしにとっての祖母も乳癌を告知されたのだった。遺伝子学検査を受けたのには、そういった事情もあってかなり遺伝子レベルでの発症の可能性が高いからだった。母は自身も乳癌患者でありながら、乳癌を患った彼女の母を看取った。それは不思議な因縁だった。祖母が最期に口にできたのは、唯一プリンだけだったという。そして、母はひとつだけ残っていた乳房を取ることになった。

母は更年期の症状でむくみや発汗がひどく、サウナがなければ生きてさえいけない状況だった。サウナで強制的に汗を出せば、わずかでも楽になれるらしい。両方の乳房を失った母は、銭湯で周囲からじろじろ見られて「変な体」と思われるのがつらいといった。医師との相談のなかでもちろん再建の話は出たが、体の一部が「作り物」になってしまうと母はそれを拒んだ。「女性ではなくなってしまう」ともいった。わたしは「どんな体でもあなたが自分を女性だと思うなら女性だよ」「世の中にはいろんな体の人がいるんだよ」と何度も説得したものの、いつも「あなたは両胸を失っていないのだからわからない」と拒絶された。母が遺伝子学検査を受けるまで、祖母と母が乳癌になり、自分もきっといつかなるなら両胸の予防的切除もやむを得ないと心の準備をしていたことが頭をよぎったが、わたしはふたつの乳房がないと「女性ではない」と思わせてしまう社会の方を憎んだ。きっとそういう社会が憎いのは、わたしだけではないはずだろう。

転院後の医師は打って変わってとても丁寧で、彼が書類にサインしなければならないとき、「今だけちょっと目を見てお話しできなくてごめんなさいね」と断りを入れてくるほどだった。わたしはその医師に、「前の病院では聞けなかったんですが、母の乳癌のタイプは細胞学検査の結果からトリプルネガティヴということでいいんですよね?」と問いかけた。医師は「そうです」と答えた。しかし、そこには実はつづきがあった。「ただ、お母さんの場合は髄様癌の特徴が認められます」と。調べると、髄様癌は乳癌全体のわずか0.3%だという。さらに確率の低い数字を見て、母に一度宝くじを買わせてみた方がいいかもしれないと思った。トリプルネガティヴの乳癌でさえ情報がなかなか少ないのに、さらにトリプルネガティヴで髄様癌となるともっと減ってしまう。

わたしはいち映画批評家でしかなく、医療の専門家でもなんでもない。だから本当は、こうして母の病気のことをどこかで語ることもなるべくしないようにしていた。でもこれは「日記」だから、あくまでもわたしから見えている世界を描写しているだけ。もしかしたら間違っている情報もたくさんあるかもしれない。それでもわたしがこの「日記」に残したかったのは、母が乳癌になってから、ポジティヴな情報をずっと探し求めていたからだった。そもそも母数の少ないトリプルネガティヴの乳癌患者で、3年も超えて5年も超えて、何年も生きている人の存在に辿り着きたかった。SNSやブログなどで、藁にもすがる思いで生きている人の記録を探した。現在、乳癌は女性の癌で最も多く、患者数は増加していっているという。だからきっといつか、あるいはすでに、どこかの乳癌患者が今も生きているということに同じように縋りたい人がいるかもしれないと想像する。だからここに刻みつけたかったのは、今、母は生きているということ。わたしのようにトリプルネガティヴの乳癌患者の家族、あるいは当人、大切な人、とにかく今生きているから大丈夫、とどこかにいるかもしれないその人たちに向かって、ここから叫びたい。

現代は情報過多の時代とよくいわれる。でも一方で、わたしは情報がないということは、何より怖いことだとも思う。本当に一番自分が苦しんでいたとき、もっともっと母のような乳癌患者が生きている情報がほしかった。この怖さはきっと、映画のなかで自分のような属性の人を見つけられないと感じている人が抱えている不安とどこかで繋がっているような気がする。自分と同じような人がどこかにいること。きちんと生きていること。ここで生きているよ! と呼びかけられること。それはとても大切なことだと、わたし自身のこの経験を通しても思う。結びつくとは到底思えないような、母の乳癌と映画批評の仕事が、ここで繋がる。たぶん、わたしがとくに弱き者が映画のなかで死んでしまうことに敏感なことにも繋がる。わたしが精神的におかしくなってしまっていたとき、10年後の母が未来からここに来て、「生きているから大丈夫だよ」といってほしいと、どれだけ願ったか。わたしが映画においても、根本的には“生”を希求してやまないのは、母の闘病があったからなのだと思う。たとえば映画におけるマイノリティの死に対して批判的なことを述べると、すかさず反発も飛んでくる。でもわたしが「死なないでほしい」と願うその地下水脈には、誰も知らないようなこんな個人的な体験と感情がある。それはわたしだけが知っているし、誰にも否定できない。

評論の形式だけにはおさまらない私的な事柄が複雑に絡み合って、あらゆる思想は生まれる。ここにあるのは、いつもの批評からはこぼれ落ちてしまうような、そんなごくごく個人的な語りである。わたしの映画批評には、「わたしは」という主語がほとんど書かれていない。それはもちろん意識的に排しているのだけど、わたしの文章にはつねに見えない「わたしは」がモザイク状に張り巡らされているのだといっていい。

物心がつく前から、いつも家では母がハリウッドの大作映画を流していた。それがいまのわたしの仕事にどんな影響を与えているかは定かではないけれど、母は癌になってから一切の映画を観ることをやめた。「作り物なんて、何の意味もない。もうわたしの人生には必要なくなった」と、時折口にしながら。人生で重大な出来事が起きたとき、映画はとことん無力だ。それはわたしのこれまでの映画人生において、唯一確信を持っていえるようになったことでもある。それでも、母は最近ようやくまた映画を観るようになった。わたしの大好きな『少年の君』を薦めたら「面白かった」といってくれたけど、『ベイビー・ブローカー』は「難しい」といって、終わった瞬間に最後の15分くらい巻き戻していた。この数年の間に溜まっていた夥しい新作映画のタイトルを眺めながら次に観る映画を考えているとき、母はどこか心が弾んでいるように見える。

今日まで暮らしたあの家に、母の病気をまるごと置いて旅立ちたい。そして明日からはこの新たな家で、ここから、わたしは今生きている母とまた、新たな人生を歩み出す。

児玉美月

映画文筆家。映画にまつわる文章をあれこれ書いて生きています。

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