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同じ日の日記

漫画を描くことが、この世界での私の機能として、適切みの強い行いだと思った/とれたてクラブ

パレスチナや朝鮮人虐殺のこと。『違国日記』の槇生ちゃんのように漫画を描くことと社会運動

毎月更新される、同じ日の日記。離れていても、出会ったことがなくても、さまざまな場所で暮らしているわたしやあなた。その一人ひとりの個人的な記録をここにのこしていきます。2024年1月は1月31日(水)の日記を集めました。フェミニズム漫画『なかよしビッチ生活』などを描く漫画家・とれたてクラブさんの日記です。

最近よく、傷が回復する瞬間/時間を思い出している。

私にとってそれは熱の感触だった。体の中を流れて、細い筋となり、内側をつんざくように燃やす。熱さにはっとする。自分の体に熱い血が動いていることに気づく。

ペンニョンでなかよくしているさつきさんが、ちょっと前に漫画をたくさん貸してくれた。昨晩は『大奥』を朝の5時まで読んでいたのに、今日は思いのほか目覚めが良かった。今年の冬は遅れていた。最近は冬なのに、バイト先でまで「地球温暖化止めて〜」が口癖になっていたほど暖かかったけど、さすがに1月はしっかりと寒かった。暖房をしこたま入れて毛布にくるまっていたので、熱しやすく冷めやすい体質の私は、起きがけに汗すらかいていた。私は、「さびしい&気力がない」の身体感覚が寒さに似ているから、暖かいと「さびしくない&気力がある」気がする(夏だいすき)。今だ!と思い、溜まっていた洗濯とメルカリの包装をした。そういえばもともと電気をつけっぱなしで寝てしまうことに罪悪感があったはずだが、電力会社をみんな電力(再エネ)にしてからその罪悪感が薄れている気がする。請求額をみて毎月ひやっとはしているのだけど。

傷が回復する時間を、回復を味わい尽くした事実を、メモしておこう、残そうと思い始めたのは、2022年の梨泰院の群衆事故からだった。

傷ついてはいけないと思っていた。血縁で繋がっていなければ、婚姻関係でなければ、仕事を休むほどに心を傾けるのは……。私が浸ってきたしがらみからすると、傷つくことの正当性から離れた事故だった。事故の数日後、COVID-19のワクチンを打った帰りのバスの中で、やっと自分の傷付きに気づいた。ワクチンでだるくなった体は健康から遠い。私は体の具合が悪い時、外の世界との境界線が少し溶ける。プリクラのペンの「ネオン」とか、インスタのストーリー編集画面の右から2番目のペンとかみたいに、ぼやぼやシュワシュワしている。連続的な自分を保っていた緊張に、今まで払っていた体力がどんなものだったか、一瞬だけ忘れる。そして体のつらさを、だるさを、感じ尽くそうとする。

ワクチン接種後に私が受け入れたものたち。帰りのバスの窓越しに見た柔らかい太陽の光。太陽光にイエベに照らされた草花。セルフネグレクト気味でスキンケアが存分にできていない肌の乾燥。その肌へ日焼け止め越しに陽射しが触れるひりつき。その小さな痛みが、熱が、熱の色ってイエベなんだと知ったことが、その日私を随分と励ましたことを覚えている。あの日のように熱がじわりと、しかし痛烈に身体に入り込んでくる感覚は、私にとって美しさそのものだった。

バスの窓越しに次々と目に入るありふれた住宅地は、等しく美しい光に包まれていた。犠牲者たちの帰る家もこんな姿だったかもしれないと、涙が出た。

そしてその後、ことあるごとに世界は地獄が続いたので、「悼む立場にいない」なんてことは考えてる暇すらなくなっていった。自分の立場を気にしてる間に誰かが死ぬので、私は堂々と傷つくようになった。

今月はアリサちんとポッドキャストを始めた。移動中の電車内で、なお様が編集してくれた前回の録音データを聴く。やっとパレスチナのことを話す会。感情が震える話題だからこそか、私はゆっくり、とぎれとぎれ、時に単語をどこかに置いてゆきながら話しており、我ながら今までの回の中で一番話すのが下手だった。アリサちんが細かくフォローをしてくれて申し訳なくなる。感情的な気持ちの発露で生まれたノイズを消さなくても良いと思うし、コンテンツとしての市場価値を高めるべきとも思っていないけど、もうちょっとがんばりたいな。

井上花月さんと惠愛由さんのポッドキャスト『Call If You Need Me』のZINEで、惠さんが「自分がきれいに話せてると感じるのは、相手の話を聴けているとき」と言っていた。次からはアリサちんの話を聴くことにもっと集中しよう。『大奥』で平賀源内と田沼意次のキスシーンにキャーキャーしていたら、さっき平賀源内が『放屁論』という身分制度批判の作品を残していたと知り衝撃だった。私たちのポッドキャストは、「いろんなマイノリティが傷つけられないどころか自由自在に屁こける世の中を目指して————⭐︎」おり、キャプションにその旨を記載している。日本史で勉強する人物名、ホモソキングが多すぎて興味がわかず、清少納言や紫式部しかちゃんと覚えていなかった。平賀源内そんな人だったんだ。うちら平賀源内の生まれ変わりかも……転職の年齢も近いし……クィアだし……

アリサちんの中には湖があるらしい。泰然として冷やかな湖が、アリサちんが爆速で走って火照った全身から、優しく熱を奪う想像をする。冷えピタかよ。

湖を抱いたり、メダカみたいなシュッとした人魚になって湖でちょんちょん遊ぶアリサちんを想像して、草生えるみたいな気持ちになる。

さつきさんが貸してくれた漫画の中に『違国日記』があった。いつもヤマシタトモコさんの漫画を読む時、私はいつも「わかってる側」「少数の側」——『違国日記』でいう槇生ちゃんに感情移入してきた。でもこの漫画は違かった。感情移入はせずに、世界を変える光景を受け取ったり、自分に立ち返ってハッとしたりするのに必死だった。『違国日記』の登場人物の中にも、それぞれさびしさの光景がある。アリサちんの中には湖の光景が、朝ちゃんには砂漠が、えみりちゃんには海が、しょーこさんにはクラブが。私には何があるんだろう。うんこかな?

槇生ちゃんは殺す気で文を書いてるらしい。そういえば殺す気で漫画を描いたことがないと思って、ここ一週間、死ぬ気で、殺す気で、漫画を描いている。これまでも死ぬ気で生きてきた気がしないでもないし、殺す気で生きた瞬間はあったはずだけど、殺す気で漫画を描いたことはなかった。漫画を描くのはすごく疲れて、必死に描いてると生活もめちゃくちゃになる。でも漫画を描いてる時が一番「生きてる」って感じがする。レファアト・アル=アリイールさんの最後の詩の「You must live」のフレーズに、「はい」と返事できているような気分になれる。私は漫画を描くことを奪われてはいけない気がするし、漫画を描くことが、この世界での私の機能として、適切みの強い行いだと思う。

殺す気で、かつてない勢いで漫画を描いているので、アプリで出会ったまだ関係の浅い自習仲間に「体力ありますね」と言われた。私が体力あると眼差されるなんてかなり珍しくて、うろたえた。言葉の居心地が悪かったので否定したけど、譲ってもらえなかった。今日もその人とファミレスで作業をしたのだけど、結局他にも思うところが多くて、ブロックしてしまった。ブロックって気軽にしていいのかな。ずっとわからない。私は全部の連絡ツール合わせて、5000人くらいブロックしてると思う。身内は右翼のおばあちゃんの着拒から、何年も前にナンパされてしぶしぶ連絡先を渡した人まで。マッチングアプリで噛み合わなかったら。 InstagramやTwitterの通報がてら。人生で1回もブロックしたことのない人もいるらしくて、ちょっと憧れる。ブロックに正しく罪悪感を抱える人もいて、それも憧れる。

今日ブロックした人からは、社会運動に携われること自体体力があるとも言われた。その人の背景を深く知らないけど、ぼろぼろになりながら自己犠牲的に運動せざるをえない人達の顔が、私の頭にはあまりに色濃くある。でも何も言わなかった。相手の背景を知るための会話にかかるエネルギーや、それにより自分から失われる時間や気力をぼんやりと算出して、諦めた。こういう咄嗟の計算、ずいぶん早くなったなあと思う。他の友だちだったら、ここで対話ができるのかなあ。集まるクィアの会の燈里さんや、喫茶おおねこのなりちゃんなど、対話に臨む姿勢そのものにその人の良さが詰まっているような人たちを思い浮かべる。

ここで対話ができる人は、すり合わせへのモチベーションこそが、目の前の違いを埋めるのに直接的なコミュニケーションを取ろうとする胆力こそが、その人にとって相手を人間として眼差している、ということなのかもしれない。かも、だけど……。でも私だって、自分と全然違っていても対話を諦めたくない相手に、対話にエネルギーを燃やせば摩耗すると知ってもなお共生したいと強く願う相手に、いつだって、何人だって、出会いたい。

ちなみに、私の体力作りや運動へのモチベーションは、生前ムンビンさんが運動を心の拠り所にしていたから、運動をすればムンビンさんの視界や感じた景色に少しだけ近づけるかもしれない、とか、それぐらい。ポッドキャストの第二回で「りゅうちぇるさんを殺したのは私たちだったかもしれない」という話題になったけど、ムンビンさんを殺したのも私だと思う。クリスマスに燈里さんがInstagramに投稿していた、韓国のママの言葉を思い出す。「神はあなたに成功してほしいとは思っていない。困難な闘いでも挑戦して生き延びることを望んでいる。この世に勝者や強者はもう必要ない。あなたには平和を築き、修復し、癒し、物語を語り、他者を愛する人になってほしい」。生きてる私なんかよりきっとずっと天使にふさわしかった人が、勝利と成功に殺される世界を、私は許したくない。どこまで許さずに生きられるだろう。成功や勝利のためではなく、この世界で私が私として機能することに、どこまで集中できるだろう。

今描いてる漫画は、きっとちゃんと漫画を講評しようとする人に読まれたら、「読者を置き去りにしている」と言われる気がする。『女の園の星』の松岡さんの漫画のように。私の漫画は全部そう。私が受け取ったもので、私の中に入ったもので、出したいものを出すことを我慢できない。(うんこみ……)

でも私はなぜか、正しい講評として誰かが「置いていかれた」と言いながら、その人が「自分は追いつける」と心のどこかで知っているような、そんな気がする。

私は対話が大の苦手だ。対話が苦手だからこそ、追いかけたり、追い抜いたりして、視界に入れてほしい。追い抜いた先で、私を眺めた後のあなたの目で、誰かの痛みを減らしてほしい。それぐらいの遠さで人と繋がりたい。

子どもの頃好きだったアニメ『金色のガッシュベル!!』の劇中歌『チチをもげ!』(最悪タイトル)の間奏で、多分砂浜で追いかけっこをするシーンが出てくる。「ウフフフフフ、つかまえてごらん〜」「ハハっ待て待て〜」というセリフがあったような、なかったような気がする。私は本当に心からその間奏の茶番が大好きで、もはやそれをやりたいだけに、小さい頃巨乳になりたがったり、異性愛規範を受け入れてきたような気さえする。大嘘。本当は気持ち悪いくらい複雑だからこそ、雑にそういうこと言えるんだと思う。でもいまだにビッグボインにはなりたい。マンモ痛くなさそう。

もっと私が誰かとクィアクィアしい関係性になったら、クィアクィアしい男友だちと砂浜で追いかけっこしたいな。カテゴリーリアルネスみたいな、ヘテロごっこを青空の下で。でも槇生ちゃんを浴びて、孤独好きの自分にもかなり自覚的になった。ていうか、孤独がこちらを愛してくれるものでもあると、これまで知らなかった。『Call If You Need Me』のZINEには、惠さんにとってのとあるきれいな人が、「ひとりでも足りているけど、人が好きな人」と表現されていた。ひとりでも充足していることを誰かにきれいと思ってもらえる可能性があるなら、それもいいかもしれない。きれいにみられたい。かわいく思われたい。ある日アリサちんが「かわいこぶりたいところが我らの本質であったりすると思う」とかなんとか言っていた。孤独が少しかわいいのなら、喜んで私はやるだろう。別の誰かを前提としたクィアクィアしい関係、実現は夢の先……。

今回は4年ぶりくらいに(フェミニストになってからは初)BLを描いてる。12月末に私は大荒れしていた。もともとデモ(というか大きな音と人混み)が大大大大大大の苦手で、でも頭数が少ないからと無理矢理行っていたら体調を崩し、バイト先ではバイセクシャルへの差別発言を目の当たりにして、ずっと続いているお母さんとの問題が一定の限界にきて弾けて……というてんやわんやが5日くらいで一気に起きた。私のSNSでの発信量自体は、イスラエル兵によりパレスチナの人が服を脱がされ並べられる写真が出回ったその日から大きく減っていた。が、それ以降も色々底を尽きていた。それにより、年末年始は1日15時間くらいBL漫画を読んでいた。BLは風邪を引いた時のポカリみたいなもんだった。私はいろいろ参った時、フィクションにどっぷり浸かることが回復に必要なひとつの手法だった。しかも漫画が一番吸収しやすい表現媒体、かつBLはクィア表現そのものなので、甘えるように読みまくった。BL作品の規範(有害さももちろんある)が私の中にわりとしっくりインストールされるのが自分でもわかって、示し合わせたようにネームを描いた。パレスチナのことと朝鮮人虐殺のことも思ってるそのままストンストンと、直接ストーリーに入れた。同じ時期、私には「沈黙は虐殺への加担」という言葉を既知の誰かにぶつけることーーつまり、資本主義と植民地主義に支えられた生活や文化を無批判に享受することが、いかにパレスチナの人の命を奪うか。パレスチナの人の手足を切断し、尊厳を辱めることへ、どれほど直接協力してしまっているか。それを知覚してもらうことーーで動いてくれる人たちは動かし切った、という感触が生まれていた。

この時点で動かせなかった人には、全く別のアプローチが必要だとも感じた。「沈黙は虐殺への加担」という言葉で動いてくれた人には、きっとその言葉で動くだけの体験や、植民地主義や差別による理不尽な暴力、それに対するアプローチの多様さの手触り、複雑さの知覚、自分の立場の多面性の実感、など、とにかくその言葉が自分と接続する、「あいだの部分」があったんだと思う。きっとこれから、あいだを埋めなくてはいけない。たまたまだけど、今描いてる漫画は、今までのSNSでの発信とは、別のアプローチになり得てると思う。誰かにとってのあいだの部分を埋めるための。あなたと、あなたの生活と、生きることそのものと、地続きであると知ってもらうための。

今は体が温かくて、この熱を絵に送り込んでいるような気がする。あ、今も回復の最中にいるのか。だから熱があるのか。回復する間もなく殺されているパレスチナの人のために、回復できる特権を、私は使えているだろうか。

ああもう、せっかく日記を書いているのに、今日は家事とブロックしかしていない。明日と明後日は楽しみな予定があるのに。明日はペンニョンのうひさんが、平日休みでこれまでのペンニョンの活動に参加できなかった人たちに向けて、関東大震災時に朝鮮人虐殺のあった荒川周辺の証言現場を巡るフィールドワークを開催してくれる。明後日は𝑲𝑨𝑰様とつくばへ赴き、植物園と、フェミニズムブックカフェのサッフォーに行く。燈里さんも仕事終わりに来れたら来てくれそう。

今月は群馬の森の追悼碑が撤去された。うひさんは心がぼろぼろになっている中、明日のフィールドワークを企画してくれた。

わかっている参加者はアリサちん、LUSHのもんちゃん、タトゥー屋のもえさん、情報保障ガイドサイト「だれも排除しない社会運動へ」のあおいさんなので、みなさん顔見知り。

ペンニョンって、他の社会運動グループと比べて、私にとってはすごく異質で、居心地が良い。フィールドワークの集合場所は横網町公園の追悼碑前だ。ペンニョンの親団体「ほうせんか」理事の慎民子さんは、ほうせんかの追悼碑が横網町公園の追悼碑に比べて、小さくて丸っこくてころんとしていてかわいいことを、いつも愛おしそうに、ささやかなドヤ顔で話す。そういうディーバネスが人を受け入れ、忘却への抵抗として機能しているのだろうと思う。土曜日の午後はほうせんかの家が解放されてるので、色々な人に来てほしい。Googleで横網町公園のことを調べると、かなりしっかりした公園だった。早く着いたら、すべり台で遊んでやろうかしら。

とれたてクラブ

漫画家。代表作はフェミニズム漫画の傑作『なかよしビッチ生活』。アリサちんとのポッドキャスト『うんこうんこフェミニズムラジオ』を配信中。
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とれたてクラブとアリアリアリサのうんこうんこフェミニズムラジオ

とれたてクラブ(漫画家)とアリアリアリサ(色々やるひと)の日常の中でぷりっと、ひらめいたり、ひらめきかけたりしたことを皆さんに見せびらかすためにはじめたポッドキャストです。
いろんなマイノリティがが傷つけられないどころか贅沢して自由自在に屁こける世の中を目指してーー⭐︎

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