また午前3時に起きている。いつもは子どもの寝かしつけのとき一緒に寝て、仮眠してから夜中に起きるのだが、今日は一睡もせずこの時間だ。ひさびさに眠れない夜を過ごしている。Twitterをひらいても、誰の更新もなく夜が深まり、窓を開けて外の空気を感じても、皆が深く眠る気配が伝わってくる。そんな夜の底だ。私はいま夜の底にいる。
眠れない布団のなかで私は、夕暮れに見た大山木(たいさんぼく)の木が、夕焼けに染まる姿がまぶたの裏で大写しになるのをずっと見ていた。大山木は、マグノリア科の背の高い木なので、下からは住宅街の家々の壁に阻まれて、よく見えない。見えないけれども高いところで、遠く落ちかかる夕陽の光を、一心に浴びている。初夏には両手を広げたよりももっと大きな、白い花を咲かせる。その白は、重く光る、存在の厚みのある白である。ほとんど人の視線を浴びることはないけれども、あんなに高いところで内側から光輝いている。それがいまの私にはとても希望のように感じる。誰からも省みられなくても、内側から輝くことはできる。澄んでいくことはできる。
よく見ると大山木の先端に、オナガが停まっている。オナガ特有の水色の長い尾を、大山木の分厚く固い葉に当てるようにして、ときおりあの独特の高い声で鳴いている。オナガの眼も夕陽の方を向いており、やはり夕焼けの光を正面から背負っている。オナガと大山木は互いよりかかり合うことなく、それぞれに光を背負っている。
子どもたちはそれぞれ楽しい夢のなかを飛び跳ねていて、先ほど眠れない体を赤ちゃんのそばに横たえたら、1歳児は一心不乱に眠りのなかに深々と潜っていて、むっとする熱気を放っていた。しばらく湯気が出ているような頭に頬を寄せていたけれども、私の眠気は一向に現れず、観念してまた布団から出てきたというわけだ。私は、この子と6歳の長女を一人で育てることになった。その重圧にときおり息が苦しくなる。
ラッコの赤ちゃんを抱く、お母さんラッコの映像を見たことがある。眠っている赤ちゃんが目を覚ましてしまうのではないかと心配になるほど、お母さんラッコは寝ている赤ちゃんをいい子いい子と撫で触り、毛をまさぐったりする。愛おしい気持ちがあふれて止められないのか、赤ちゃんが痛がりそうなほど、自分勝手に手を動かしていた。私もあんな手つきになっていないか、自分勝手な想いで子どもたちに愛という重荷を押しつけていないか、ときおり不安になる。
愛はいつだって身勝手なものに反転する。私の愛、私のあふれる感情に酔いしれ、だんだんと加速していく。私もついつい赤ちゃんに熱いキスをしてしまう。そうすると最近彼はキスが親密なあいさつであることをおぼえてしまい、寝ている私を起こすとき、顔をそーっと近づけて口元にちゅっとやるのだ。それも前傾姿勢を崩して頭をごっちんしないように、そーっとそーっと顔を近づけてくる。1歳を迎えたばかりの彼は、まだ疑うことを知らず、至極真剣に顔を近づけてくる。その顔をときおり思い出しては、一人の時間に胸を熱くするが、いつからかもうキスを私はしなくなった。母親との親密な挨拶は、別の表現にした方がいいだろうと思ったからだ。毎日毎日、これでいいのかと迷いながら、一つ一つ決めてじりじり進んでいくことしかいまはできない。
猫のコハクが死んだときのことをふと思い出す。いま私が見ている窓辺の床で動かなくなって死んだ。「猫いりませんか」という貼り紙に惹かれて獣医さんではじめてコハクに会ったとき、目がきらりと光った。その色は半透明の黄緑色で、宝石の琥珀みたい、と思って、コハクと名づけた。茶トラの大きなオス猫で、そのころ一人の寂しさを抱えていた私の相棒だった。結婚もせず、子どももかたわらにいなかったころ、コハクと私は身を寄せあって暮らしていた。池の上から歩いて7分の、淡島通り沿いにあるマンションの5階だった。角部屋からは、遠く東京の多摩地区の山々まで見渡せた。その窓辺によく二人で座って、淡島通りの緩いカーブを曲がっていく車を眺めた。
私がタバコを取りだすと嫌がった。タバコを吸い出すと、私が一人の思考のなかに潜っていき、コハクが横にいるのを忘れたようになるのを察知していたのだろう。とにかく寂しがり屋だった。私が長く家を空けるときは、近所に住んでいたイタリア人の友人に、猫シッターをお願いした。もともとはベネチア映画祭で出会った翻訳家のエリカは、かつおのお刺身を持って、いつもいそいそと来てくれた。エリカのうちに遊びに行くと、どんなに夜中でもハウスメイトのマッテオがいつも美味しいトマトパスタを作ってくれた。でも本当にそのころ私は、地の底まで、一人だった。もう死んでしまいそうだと思っていた。
沈没するような時間を共有したコハクは、戦友のようなものだった。死んだときは家族がかたわらにいたけれど、私はコハクしか知らない、あの一人だったときの時間がコハクの死とともに蘇ってきたように感じて、雄叫びのように泣いた。そのころ3歳だった長女は、私の涙を見て怯えていた。そんなふうに母親が泣くのを見たことがなかったのだ。
涙といえば最近、フランスの映画監督セリーヌ・シアマの『秘密の森の、その向こう』、原題はPetite Mamanを見て、動けなくなるほど泣いた。泣き方は激しくてなんとか声を殺して嗚咽して、終幕後劇場の明かりが灯されても席を立てず、誰もいなくなるまでしばらく泣きながら座っていた。「あなたのせいじゃない、私の悲しさは私のせい」と、映画のなかの失踪する母親は、そう小さな娘に対して言っていた。その言葉に、暗い記憶がよみがえったのだ。母の悲しさは母のせい。娘の私のせいではない。そう思えるまで長くかかった。その映画で娘は、「家族みんなが、それぞれ考えてるって感じ」とも言っている。そう。それぞれが考えている。それぞれが、それぞれの悲しさを抱えている。私の家族は、そんな家族だった。悲しみは、誰かのせいとかそういうものではない。人は生まれながら悲しみを背負っている。それが当然のことなのだと幼いころから感じて、荒野に吹き荒ぶ風のなかを生きてきたように思う。
だけどきっと、私のことを父も母もとても愛している。父も母も、自分が生きることに対しても必死で、力を尽くしていただけだったろう。愛は身勝手に反転するのと同じように、子どもの方から見える風景も身勝手に反転するものだから。恨めしい悲しさの方に。
喪失や傷を称揚したくないという気持ちがある。弱さというものが持つ力について、最近よく考える。弱さや傷を前面に出して、悲劇の悲劇たる由縁に酔いたくない。悲しみはそっと、ハードボイルドに消し去りたいという思いが拭えない。それはあらかじめ、みな悲しいのだと身に染みていたからなのか。それが無頼派の強がりだと呼ばれたとしても、なぜか時代にあらがってそう思ってしまう。