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同じ日の日記

わたしの冷えきった手指/ひらりさ

ロンドンから帰国し再就職。「ひらりさ」として書き続けることをめぐって

毎月更新される、同じ日の日記。離れていても、出会ったことがなくても、さまざまな場所で暮らしているわたしやあなた。その一人ひとりの個人的な記録をここにのこしていきます。2023年1月は、2023年1月27日(金)の日記を集めました。劇団雌猫としても活動し、エッセイ集『それでも女をやっていく』を刊行したひらりささんの日記です。

足先が冷えている。寝ている間に布団から飛び出してしまったらしい。鳴り響くタイマー付き基礎体温計を無視して蛹のように体を丸め、布団のなかに埋まりなおす。1月から会社員に復帰したというのに、布団からいっこうに出られない日が続く。でもあまり実害はない。勤務はフレックスタイム制で、コアタイムは11時から。上司も同僚も11時にならないと出勤しない。しかも在宅勤務可。月、水、金は原則出社ということになっているのだが、そこまで厳密ではない。ミーティングの全てはオンラインで完結できるし、エクセルやスライドをちまちま作成する作業は家にこもっているほうが捗る。そんなわけで、今日は金曜日だが在宅を選んだ。上司からも何も言われない。わたしの日々のタスクはプロジェクトの全体進行管理表に記録されており、わたしがちゃんと仕事しているかどうかは、期日どおりに作業成果を提出すれば示すことができる。

入社して約1ヶ月。昨年はロンドンに住み、大学院に通っていた。通っていた、と書いてしまったが、授業の半分ほどがリストラに対抗する教員たちのストライキでなくなってしまったので、大学に行った回数は1年で50回にも満たなかったと思う。家で黙々と文献を読むかTwitterを見るか、日本の友人とLINE通話をしていた。引きこもりのような生活をしていたから体力はやっぱり落ちているし、勤務時間中も眠い。無職のときは昼過ぎに起きていたからしょうがないかと思っていたが、後頭部をがつんと殴られたかのような眠気が午後も続くので、さすがに何かの病気だろうか……と不安になったのが先週のこと。食後の血糖値スパイクを疑ったりもしたのだが、よくよく自分の生活を見直した結果、単に睡眠導入剤の飲み過ぎだということが発覚した。睡眠導入剤は、留学前にひどい不眠に悩まされた際に処方された。留学先にも持っていき、ちびちび消費し途中で使い尽くしたのを、日本帰国後に改めて処方してもらった。帰国直後はまだ不眠の傾向があり、診察を受けて1回あたりの分量を増やしたのだが、どうやらその分量が合っていなかったらしいのだ。薬を飲むのをやめたが、中途覚醒はまだあるものの、しっかり寝付けるし、起きられるし、昼間はすっきり活動できるようになった。

「ひらりさ、会社で働き始めてからのほうが、明らかに元気だよね」
末広町の古民家フレンチで、出てくる料理を美味しい美味しいと秒で平らげペアリングのワインをがぶ飲みするわたしを見て、友人が言った。この友人には留学中もさまざまな弱音を吐かせてもらっていたし、帰国後会うのはすでに3度目だ。
「年末に会ったときより元気?」
「年末に会ったときよりはるかに元気だね。先週会ったときは心なかったけどね」
「先週はね……」
先週は、この友人と新国立劇場にバレエを観に行った。でも開演前、別件に会っていた別の友人から、わたしの発した言葉にいくつかの問題があったことをLINEで指摘され、そのショックで、観劇中まったく集中できていなかったのだった。長い付き合いのこの人にはバレバレだった。幕間はLINEを返すので頭がいっぱいで、公演後はLINEが返ってこないことで頭がいっぱいだった。昨日の夜にようやく相手から返信があり、なんとか謝罪を受け入れてもらったところだった。

ここで言い訳をしてもしょうがないのだが、先週は会社員生活に慣れるのにもいっぱいいっぱいななかで、2月に刊行するエッセイ集『それでも女をやっていく』のゲラを夜中まで推敲していたため、HPとMPの残値がなかったのだとは思う。他人を気遣う余裕が0なのに他人と会ってはいけなかった。性根が大雑把で他人を傷つけがちな人間なのだから。

そもそも年越しのときには、2023年の目標は山籠り、と唱えていたはずなのだ。すっかり忘れて、わたしのカレンダーは友人との予定で埋まっている。そこに会社の飲み会もそこそこ追加される。大勢の飲み会では黙って飲食していればいいので、クリティカルな事故は起きない。新しい人間を知り新しい情報をインプットするのは楽しい。どんどん元気になっているのだとしたら、いろいろな人と会っているからなのかもしれない。いろいろな人と会って、作業をしたら褒めてもらって、毎月決まった日に給料が入る生活をしていると、元気になってしまう、睡眠薬がいらなくなってしまう人間なのだ。元気になるのは本来いいことだが、わたしの文章はネガティブパワーから湧きいでているという自覚がある。この生活に慣れ切ってしまったら文章を書けなくなってしまうような気がして怖い。いや、そんな動力で文章書くような生活、しないで済むほうが人間として幸せだとは思うけど。

今回の単行本は、自分のなかの膿を絞り切るようなつもりで書いた。途中まではへらへらしていたけど、ゲラの端端を入念に直していく作業に入り、いよいよこの本が世に出ることが現実化してきたら、それを恐れている自分がいて、人前で糞尿を撒き散らす悪夢まで見た。これまでも本は出してきたけれど、だいたいは他人に寄稿してもらうか、他人に取材するかだった。自分の話をするときも、ウェブであれば、媒体にあわせたキャラクターを被って書いているふしはあった。100パーセント剥き出しの自分の話を10万字書く、というのはやはりプレッシャーだった。それで睡眠導入剤を増やしてもらったのだった、そういえば。会社員を始めたから元気になったのではなく、本を書き終えたから元気になったのかもしれない。いずれにしても執筆が健康に悪いことは間違いがない。労働よりも明らかに悪い。

こんな筆名早く捨てたほうがいい。文章なんて書かずに楽しく暮らせるならそれに越したことはない。でも今のところわたしはこの筆名で続けて行こうと決意していて、だからフレックスタイムで在宅勤務OKで、兼業が許されている職場に入った。そしてこれまでの職場の名前はFacebookに記載していたしTwitterでも隠してはいなかったのだけれど(これは私がウェブメディアの編集を経て「ひらりさ」になったという経緯とも関わっている)、今回は職場のことをインターネット上で言わないことにした。ひらりさ/現実の自分を別々のものとして扱うことにし、インターネット上にいる私は「ひらりさ」のほうへ包含しつつ、後者はできるだけ世の中から消していこうと思っている。

でも一方で、今回の新刊で「ひらりさ」なんて引退してしまいたい気持ちもある。生身の自分や生活や健康を希薄にしてまで、大事にするようなものだろうか? わからない。自分がどうしたいのかもわからない。でもハピネスで文章が書けるようになりたいという気持ちもあんまりない。それはたぶん、わたしにしか書けないものじゃないから。いま、わたしはわたしにしか書けないものを書いていると思う。それらを書くことはわたしにとってデトックスであり、読んだ人にとっても前向きなカタルシスがあるはずだとは信じている。信じている間は書き続けたい。信じられなくなったらやめればいい。やっぱり、山に籠らねばならない。わたしはわたしの冷えきった手指を愛している。

ひらりさ

文筆家。1989年東京生まれ。オタク女子ユニット「劇団雌猫」のメンバーとして活動を開始後、オタク文化、BL、美意識、消費などに関するエッセイやインタビュー、レビューを執筆する。単著に『沼で溺れてみたけれど』(講談社)。劇団雌猫としての編著書に、『浪費図鑑 ―悪友たちのないしょ話―』(小学館)、『だから私はメイクする』(柏書房)など。

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『それでも女をやっていく』

著者:ひらりさ
発行:ワニブックス
価格:1,540円(税込)

『それでも女をやっていく』│ワニブックス

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