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同じ日の日記

歌とコンクリートは、どちらが長く生きるだろうか。慰霊の日の沖縄で/安東嵩史

ただ見て、聞いて、受け入れて、考える。帰って、考えて、また来る

毎月更新される、同じ日の日記。離れていても、出会ったことがなくても、さまざまな場所で暮らしているわたしやあなた。その一人ひとりの個人的な記録をここにのこしていきます。2022年6月は、2022年6月23日(木)の日記を集めました。人間の移動と境界線上における文化事象の研究をし、『沖縄のことを聞かせてください』(著:宮沢和史/双葉社)の編集も担当した編集者の安東嵩史さんの日記です。

6月23日。昨夜は飲みすぎた。
那覇に滞在しているときはたいてい栄町市場で泥のように酒を飲んで、大回りして泊の港に歩いていき、那覇港の近くにある定宿に帰って寝るが、昨夜は大石さん、ビデオさん、河合くん、桜井など普段沖縄で会うことのないメンバーがそれぞれの仕事やプロジェクトで集合していたせいか、余計に飲みすぎた。最後は桜坂の希望ヶ丘公園という小高い丘になった公園で、ほぼ地べたに寝転びながら何かを話していた記憶だけが残っている。カメラロールを見ると午前1時34分に松尾のローソンの前にしゃがみこむ河合くんが写っていて、2時13分には一切記憶にないソーキそばを食べている。39分の失われた記憶の中にあったはずの、何か。

10時過ぎ、のろのろと起き出し、車を借りる約束をしていたカフェに向かう。ヤマトより一ヶ月近く早い梅雨明けの沖縄、観光客が殺到したのか、今回の滞在期間中はカーシェアもレンタカーもほぼ全滅。学生時代から20年以上通っていて沖縄で車にあぶれたことなどなかったので、完全に油断していた。コロナで観光客が激減したことで、各企業が車をずいぶんと削減したらしい。慌ててほうぼうに電話をかけ、今日明日の2日、どうにか車を確保。「人様にお貸しするような状態じゃないんですけど……」と言いながら店主が見せてくれたのはおそらく発売20年は経っているだろうホンダのライフだったが、車なしでは今日の予定がすべて狂ってしまう。ありがたくお借りする。カーナビはなく、オーディオはCDだけ。エアコンは効く。十分ではある。ただ、音楽が聴けないのは困るのでどこかでCDでも買わなければならない。
のうれんプラザ(旧・農連市場)の近くに中古レコード屋がある。ちょうど朝食をと思っていたのでわずか信号数個の区間を走り、のうれんプラザに駐車。かつては戦後の面影を残すほとんど一枚屋根の平場の市場だったが、現在は三階建てのきれいな建物になっている。卸などで賑わうのは深夜から早朝であり、この時間にいるのはほとんど食事にきた地元の人や観光客だ。しばらくぶらぶらと場内を歩き、名嘉鮮魚店の通路に出された長机ですしセット。鮮魚の握り五貫にもずくの小鉢、もずくと魚の天ぷら、さらにあら汁がついて550円。ゴーヤーの天ぷらを追加してみたが、一口噛んでみるとこれがゴーヤー、人参、ポークの合わせ天。素晴らしい。隣に座ったおばあさんが誰にともなしに「さあ、今日は何をもらおうかね」と呟く。こういう独り言はとても好きだ。「ゴーヤーの天ぷら、いいですよ」とおすすめしたくもなるが、どう見ても先方は近隣住民。たかが束の間の旅人である自分がその暮らしに何かの力を及ぼそうとしてはならない。他者の領分に踏み入るのなら「主体であれる」などとは思ってはならない。何かを選べる、何かを学べる、何かを働きかけられるなどと思ってはならない。他者は自分のために存在しているのではない。このことは、最初にこの島に研究ともつかぬ自己満足の調査をしにきた2002年に痛烈に感じ、それ以降肝に銘じてきたことでもある。ただ見て、聞いて、受け入れて、考える。帰って、考えて、また来る。その繰り返しのうちに何か必然性のようなものが生まれてくるとしたら、そこで初めてその場所に自分の置きどころが見えてくる。時間はかかるが、そういうものだ。黙々と食べ、「お先に」と去る。きっとまた来る。日常と旅のリアリティの間にある、何か。

6月23日は日本軍や米軍の死者も合わせると20万人以上の命が失われた沖縄戦が終結したということになっている日で、沖縄では「慰霊の日」という公休日。毎年、この日は激戦地の一つだった南部の摩文仁にある平和祈念公園で沖縄戦の全戦没者追悼式典が行われる。しかし、この日は単に日本軍の牛島満司令官が「あとは各々、死ぬまで戦え(意訳)」と言い置いて自決した日であり、終結したのは「日本軍としての戦闘指揮」に過ぎない。各地に散った部隊によってその後も散発的な戦闘は続き、9月7日に降伏文書が調印されたことで、ようやく沖縄での戦は公式に終結した。
平和記念公園に1995年に建立された「平和の礎(いしじ)」は、民間人・軍人合わせた沖縄戦における日米の全戦没者に加え、県出身者に関しては1931年の満州事変から終戦後に至るまで、この戦争を直接の原因として亡くなったすべての人の名前が刻まれた石碑だ。現在でも3000名弱の遺骨が収集されず原野に眠っていると言われるこの沖縄では、今でも新たに判明する戦没者名が後を絶たず、この「平和の礎」には毎年6月に合わせて追加の墓碑銘が刻まれ続けている。いくら誰かが「この日に終わった」と言おうが、式典や文書で形を整えたその薄皮を一枚剥がせば、今でも泥に塗れて遺骨を収集する人や、その帰りを待つ人がいる。わずかひと世代、ふた世代前を振り返れば、その経験を肌身に刻んだ人がいる。八十歳は過ぎていると見えたさっきのおばあさんもそうかもしれない。戦闘は終わったが、戦争は終わっていない。我々は常に長い「その後」の中にいる。「終わった」と「続いている」の間にある、永遠に確定しない何か。

CDを買わないと。高速のサービスエリアで売っているような、いい感じに枯れた民謡全集的なものがのうれんプラザにあれば一番いいと思っていたが、なかったので近くの中古レコード屋「宇座商店」へ。ロックやパンクが中心の品揃えの中から選んだのは、ブルーズシンガー、スクリーミン・ジェイ・ホーキンスの『Cow Fingers and Mosquito Pie』(1991)。収録された1956年のヒット曲「I Put a Spell on You」はジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で印象的に使用されていた。茫漠と暑い本島南部を走るドライブのお供によさそうだ。ソウル・フラワー・ユニオンのアルバム『スクリューボール・コメディ』(2001)があったので、これも買った。沖縄、在日、アイルランド、パレスチナ、世界中の虐げられた民とともにある歌を作ってきた彼らのこの作品は、自分がその後沖縄の島々やもっと広い世界を旅する中で常に心中に鳴り続けてきた重要な一枚。もう何百回聴いたかしれないし、何より家に帰れば21年前にボーカルの中川敬に神戸のタワーレコードでサインまでもらったオリジナル(?)盤があるが、今日ここで出会ってしまったら買わないわけにはいかない。道中で誰かに会ったらあげてもいい。自分の中に深く根を下ろし血肉化されてしまったものは、誰かに手渡しても消えはしない。所有と固有の間にある、何か。

カーオーディオにCDをセットし、一路南へ。豊見城から糸満を通るコースは新しくできたバイパスのおかげでだいぶ交通がスムーズになったとはいえ、今日は必ず混むだろう。道中にはひめゆり平和祈念資料館がある。今年は復帰50年という節目に合わせ、音楽家の宮沢和史と、それぞれの「沖縄」を生きる10人の人々とともに『沖縄のことを聞かせてください』という本を作った。その中で資料館にも大変お世話になったので御礼に寄りたかったが、さすがに今日は自分などの相手をしている暇はなかろうと連絡はしていない。そこで、内陸の南風原から八重瀬を通って摩文仁に向かうことにする。この島々に自分の意志で通いはじめて20年、どれも馴染みになった地名だ。豊見城、糸満、南風原、八重瀬、摩文仁。アメリカ軍に追い立てられ、日本軍に急き立てられて、この島の人々が歩いた道。市街地から郊外を抜け、農道を抜け、小高い丘を越え、今は一面のさとうきび畑が陽光に揺れる道を走る。誰もいない。『沖縄のことを聞かせてください』にご登場いただいた現代美術家の山城知佳子さんが沖縄戦をテーマにした制作の取材中に聞いた話として紹介してくれたエピソードを思い出す。<多くの人が亡くなった南部のほうでは、戦後、農作物が豊作になった、というもので。死者の体が養分となり、それまでになかったほど生き生きと色鮮やかに、大きな作物が実った。それを、みんな泣きながらむしゃむしゃ食べた……と>(p.333)。人々はどんな気持ちでそれを食べたのだろうか。親しい人を亡くした悲しみ、自分は生き残ったという罪悪感、「あの時ああしていれば」という悔恨、それでも飢えた体に染み渡る栄養の、ほとんど本能的な悦び。アッパーな曲が続いたので一旦オーディオを切り、無音で走る。
古い車は走行こそ支障ないが、サスペンションは固く路面の振動がもろに体に伝わってくるし、少し深めに左折すると左前輪あたりのシャフトが必ずギゴゴと音をたてる。「人様にお貸しするような車じゃ……」という言葉が陽炎の向こうに蘇る。陽は高い。誰もいない。そろそろ正午。あちこちでサイレンが鳴り、黙祷が捧げられ、平和祈念公園では県知事や総理大臣が何かを言うだろう。言葉になる声と言葉にならない声の間にある、何か。

追悼式が終わり、総理大臣もそろそろ去ったであろうという頃合いに、平和祈念公園にたどり着いた。しかし、門前から大渋滞。そのほとんどが式典の終わる時間を見計らって祈りや献花を捧げにやってきた地元の方の車と見える。駐車場がまったく空いていないのだろう。そのままじりじりと進み、ようやく平和祈念公園の敷地内に入ると、左手の大きな駐車場に浅葱色と白に塗り分けられ赤色灯を戴いた物々しい警備車両がずらりと並び、青藍色の制服を着た機動隊員が群集している。彼らの警護対象は、ほとんど総理大臣一人だろう。もちろんこの会場には県知事や県議会議長など沖縄の要人も多いが、彼らにこれほど物々しい警備がつく絵は想像がつかない。執拗にこの島の尊厳を汚してきた政権に対する怒りや不信が渦巻く中、自国民ではなくまるで敵のもとに赴くような厳戒警備。その脇で、地元の車は長蛇の列。この入り口近くの駐車場が使えなければ、遠く離れた奥まで行って車を駐めなければならない。炎天下を歩いてきたと思しき高齢者の姿も見える。総理大臣たった一人のために占拠された駐車場にそびえ立ち、島の人々の祈りを妨げる、浅葱と青藍の壁。辺野古や高江で抗議を行う人々を排除するのも、この浅葱と青藍の壁。天壇、紺碧、群青、瑠璃、天色(あめいろ)、縹(はなだ)。さまざまな青系の色の名が浮かぶ。美しい名前を持つ日本の色をこんな場面の表現に使いたくはないが、この島をどこまでも壁の向こう側の「捨て石」と扱ってきたこの国の醜い姿を、この光景に見出さざるを得ない。ヤマトと沖縄の間にある、「何か」では済まされない、軽侮と不信の壁。

結局、祈念公園の最奥まで行っても駐車できるスペースはなかった。今日は地元の方のための日なので、自分が駐車することは断念し、そのまま車の流れに沿って外に出る。天気もいいし、近くの慶座絶壁(ギーザバンタ)という戦跡に向かう。さとうきび畑が広がるなだらかな坂を、農道に沿ってくだっていく。沖縄島南端部の海岸線は、基本的にサンゴ石灰岩のゴツゴツした岩場や崖で構成されている。なかでもこのギーザバンタは西の喜屋武岬と並んで険しくそびえる断崖絶壁であり、直下には強い風にあおられた海が大きく坂巻く。沖縄戦末期、島の南端部に追い詰められた人たちは砲弾に倒れ、断崖から海へと身を投げ、岩場の陰で自決していった。ギーザバンタも例外ではない。このなだらかな下り坂を、人々は最期の場所へと向かっていった。空は天色、丘の向こうから姿を現すのは瑠璃の海。
崖のふもとにたどり着くと海岸の岩場に下りる細い階段があり、それは途中から単なる斜面に変わる。摩文仁の丘の地下には小規模な貯水ダムが造られており、そのおかげで土壌の保水力の弱いこの地域の農業は飛躍的に発展した。雨の多い時期はそこから溢れ出した水が地中を通ってこの海岸で滝となり、海へと注ぐ絶景が見られる。岩場へと下りる斜面は地中から流れ出した水で覆われ、流れに沈む草のつるつるした表面も相まって滑りやすく危険でもあるが、それだけに人はあまりおらず、静かに海を眺めるための絶好の場所でもある。しかし、今日は先客がいた。年配男性の釣り人が二人。口調から察するに観光客ではないようだ。昔は「慰霊の日に釣りをすると海に連れて行かれるぞ」などという怪談めいた話を聞いた気もするが、最近はみんなが気にしているわけでもないのか、そもそもあまりメジャーな話ではないのか。数多の命を飲み込みながら、この島に恵みを与えてもきた海。この南の海の彼方にある理想郷ニライカナイには死者の魂が集い、そして島に豊穣をもたらす祖霊神となって帰ってくるという信仰が琉球にはある。戦跡・理想郷・釣り人。おじさんがかじっている「かにぱん」の袋に描かれた蟹のイラストだけが、つるつるとした妙に世俗的な存在感で、この時間と空間を現実に引きとどめている。ズボンを膝まで捲りあげた裸足の脚を蟻が這う。この蟻も、岩場に無数にいる現実の蟹も、そして魚たちも、かつてこの地で息絶えた人々の肉を糧としただろう。77年、彼らの命を作った諸元素は草となり、蟻となり、蟹となり、おじさんがいま釣り上げた魚となって、この時間と空間の一部として存在している。絶対的な境界だとわれわれが思い込んでいる生と死を円環の一部分にしてくれる、何か。

南部戦跡を離れ、『沖縄のことを聞かせてください』も置いてくれている御礼かたがた八重瀬のくじらブックスへ。小規模ながらも越境やフェミニズム、短歌に海外文学と良質な新刊が並び、豊富な沖縄関連の古書がある素晴らしい書店。店主の渡慶次さんとお話ししていると、沖縄復帰50年特集が組まれた『現代短歌』7月号を勧められる。『現代短歌』は毎年デザインコンセプトが変わるので見ていて楽しいが、それ以上に、ここ数年はっきりと意識的な作りになっている。前号は『アイヌと短歌』だった。この並びもそうだろう。日本の帝国主義的近代が作り出した、北と南の「問題」。沖縄問題、女性問題、アイヌ問題、同和問題、トランス問題。ほとんどの「問題」は常にその構造を生んだ責任を負うべき側が勝手に設定し、当事者の存在や属性を「問題」にする。排除しておきながら「問題」にする。
ここではこの『現代短歌』7月号のほかにワリス・ノカン『都市残酷』と、古書を2冊購入した。ワリス・ノカンは台湾原住民(※台湾では中国からの移民が増える以前から住んでいる人々のことをこう呼ぶ)、タイヤル族の作家。沖縄から見る台湾は、ヤマトから見る台湾よりはるかに複雑な文脈のある場所だ。近代日本が力で併合し、同化させようとしてきた二つの場所の間を、多くの人が行き来した。近代において多くの沖縄県民が台湾に移民として渡ったが、そこで発生したのはヤマトの人間に差別される沖縄県人が己を「日本人」として台湾人の上に位置させようとする複雑な心の動きであった。台湾からは特に八重山諸島に多くの人が移民してきて、西表島の炭鉱や石垣島のパイナップル畑などで、しばしば差別も受けながら重労働に従事した。そういった経緯もあり、沖縄県では世界各地に渡っていった県系移民の歴史に触れてもらおうと、中学生や高校生を対象にしたホームステイ・プログラムを実施しているが、沖縄島からはハワイや南米諸国が多い一方、八重山からは台湾行きの割合が非常に多い。2008年までは石垣島から基隆までフェリーでも行けた。このフェリーに一度だけ乗ったとき、「戦争が終わってから二度目の里帰りをする」というおじいさんがいたのを覚えている。決して「被害者」の側面だけではない沖縄近代史が、台湾、そしてこの島の米軍基地からB-52が空爆に向かったベトナムといった東アジアとの関係に座標を移すと見えてくる。「沖縄の加害者性」は県内でも今もってなかなか人を選ぶ話ではあるし、ましてやヤマトンチュである自分が軽々しく持ち出せる話ではない。だが、世界的な支配・被支配の歴史の編み直しの動きの中で、いま一度台湾との関係を勉強し直そうという動きはここ沖縄でも盛んになりつつある。以前沖縄でお世話になった通信社の方からも、夏から台湾に社費留学するというメールが来ていた。支配と被支配、加害と被害の自己認識の境界を長い時間をかけて変容させる、何か。

今日の最後の目的地・読谷村に向かって、西原インターチェンジから沖縄自動車道に乗る。途中、中城のパーキングエリアに寄り、お約束の枯れたCDコーナーを物色。購入したのは沖縄音楽界の生き字引・ビセカツこと備瀬善勝さんが主宰するキャンパスレコードがリリースした企画版『親子ラヂオは島うたラヂオ』。ようやく民謡っぽいものが手に入った。
戦後の荒廃の中で沖縄の人々の心を支えたのは、ラジオから聞こえてくるニュースや民謡だった。しかし電気の復興は遅れ、ほとんどの庶民はラジオを買う金もない。そこで各地域では「親子ラジオ」という、親ラジオの受信機の電波を増幅して各家庭のスピーカー(小ラジオ)に流す仕組みがつくられた。これなら電気を必要とするのは親ラジオだけですむ。今でいうコミュニティラジオの極小版のように、集落ごとの自主制作番組を放送する局も数多く生まれた。この盤はそのうちの一つ、本部町渡久地地区の「渡久地ラジオ」の放送を採録した記録音源。欲しいものは作る、ないものは作る、顔の見える範囲、手の届く範囲でそれを手渡していく。かつて、人はずっとそんなふうにしてきた。
渡久地ラジオに限らず、ほとんどの親子ラジオは1970年代に入るとインフラ整備や経済開発の波及とともに姿を消した。人々の心をひととき潤し、こうして記録に残されることもなく消えていったものも無数にあるだろう。その音のかすれ、その声の抑揚、その空気の振動、それを受け止めて何かを思った心、確かにあったはずのそれらはいったいどこに行ったのだろう。いま、我々は、顔が見えないほど遠くで作られたものが、どんどん自動的に流れこんでくる時代に生きている。それを確かにするためのインフラ。それを永続的にするためのシステム。この島の経済的な背骨である沖縄自動車道を走りながら、夕暮れの生ぬるい空気の中にぱらぱらと散っていく三線の響きを、聴くともなく聴く。歌とコンクリートは、どちらが長く生きるだろうか。流れていくものと築き上げられるものの間にある、何か。

読谷村の楚辺地区に着き、ビーチの駐車場に車を駐める。『沖縄のことを聞かせてください』の表紙写真はこの地に住む写真家の野村恵子さんにお借りした。1945年4月1日、この地の沖合を埋めて集結したアメリカ軍の艦艇から、海岸の集落に艦砲やロケット弾など合計10万発以上の砲弾が打ち込まれ、沖縄島での凄惨な地上戦が幕を開けた。その始まりの海、失われた命や見えないことにされたものたちの声が聴く者もなく沈む海。恵子さんの海中写真には、よくある「美しい沖縄の海」とは違う奥行きがある。サンゴの海という、言葉だけ聞いたら陳腐な消費記号に見える対象だからこそ、そこに本当は何が沈んでいるのか、思いをいたす人がいてもいいと思って選んだ。この集落は米軍基地建設などで強制移転や土地使用権をめぐる裁判などさまざまな戦後史を刻まれてきた地域であり、今でも米軍施設内に農地を持つ人がいたり、地域の拝所があったりする。生活の場に政治が一方的に引いた境界に翻弄されてきた人々の歴史は、今もまだ続いている。

集落の海沿いに「艦砲(かんぽう)ぬ喰ぇー残(ぬく)さー」という戦後民謡の歌碑がある。読んで字のごとく、「艦砲射撃の喰い残し」という意味。作詞・作曲者の比嘉恒敏は大阪に出稼ぎに出ていた1944年、米軍によって学童疎開船「対馬丸」が撃沈された事件で長男と父を失い、翌年には大阪の空襲で妻と次男を失った。戦後に帰郷した沖縄は、艦砲射撃で一面の焼け野原。そんな中で抱いた心情を綴った歌だ。比嘉は戦後、四女に恵まれ、娘たちに歌や踊りを教えた。その頃に、この曲は作られた。戦中戦後の辛苦を五番にわたって歌い上げ、最後の「うんじゅん我んにん(あなたも私も)/いゃーん我んにん(お前も俺も)/艦砲ぬ喰ぇー残さー(艦砲射撃の喰い残し)」というフレーズで、生き残ってしまった者のどこか幻肢痛のような心の痛みを「喰い残し」というフィジカルな語感によって切実に表現した名曲だが、娘たちと触れ合う幸福な時間の中にあって、彼は失われた過去をどのような思いで見ていたのだろう。娘たちが組んだグループ「でいご娘」は沖縄で人気を博したが、比嘉恒敏自身は1973年に飲酒運転の米兵に車で追突され、妻とともに亡くなった。この歌が録音され、広く世に知られるようになったのはその死後のことだ。
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌碑が立つ公園はユーバンタという名前の高台になっていて、目の前は見渡す限りの海。歌碑の裏には絶景の岩場に降りる階段がある。2月に恵子さんのところに写真の話に来たとき、ここに降りて海を眺めて帰ろうとしたら、近くの基地勤務の米軍人と思しき男性とその家族であろう子供たちがちょうど「艦砲ぬ〜」の歌碑をしげしげと眺めたあと、おそらく意味のわからないであろうその言葉を横目に海辺に下りてくるところだった。もちろん彼らの誰ひとりとしてかつての沖縄戦を体験したものはいないし、その責任を直接に負うているわけではない。ただ、その歴史の先にここにいて、ここで育っている彼らが、いつかこの歌詞の意味を知ることがあるかもしれない。そのとき、そこにどんな思いが生まれるだろうか。自分にはわからない。地元のスーパーマーケットで買い物をし、海辺をランニングする「彼ら」。間違いなくこの空間の成員でありながら、生活の場においてはアンタッチャブルなバグのように扱われもする「彼ら」。県民の意思に反して配備されたオスプレイが空を横切るたび、米兵によって憎むべき犯罪が起こるたび、「彼ら」もまた、望まずして沖縄戦後史の表象となる。この先、「彼ら」の存在がこの空間に包摂されていくことは果たしてあるのか、あるいは永遠にバグのままか。
沖縄島の西海岸エリアには、戦後を通じて広大な米軍の軍用地が立地してきた。全国の米軍基地の七割以上が立地するこの島に、基地は目に見える形で戦争の影を落としている。かつて「基地がなくなればイモ・ハダシの経済に逆戻りする」という言葉で沖縄経済の基地依存を温存しようとした言葉があったが、少なからぬ面積が返還された今、その跡地利用も進み、経済の基地依存度はかなり低くなっている。だが、それらの場所はどうなっているかというと、北谷美浜や宜野湾〜那覇に至る沿岸部の返還地では巨大なショッピングモールができ、ヤマトの資本が次々と大きなホテルを建てている。自然は失われ、多くの金が沖縄県外の企業に流れていく。一方で、最近まで軍用地が返還されなかった浦添西海岸や、嘉手納基地の滑走路のすぐ先に位置し離陸する戦闘機の轟音がものすごいせいか大規模な商業開発が入らない砂辺、そして戦後を通じて基地に翻弄されてきたこの楚辺といったエリアの海には、美しい浜や干潟、珊瑚の群生などが残されたままだ。皮肉なことに、米軍基地があったがゆえに野放図な開発が行われることなく、沖縄の風景が保全されている(ただし、浦添西海岸にはこれから那覇軍港の移転が予定されている)。物事はすべて、単純ではない。複数の可能性の中からさらに枝分かれした複数の因果によって、我々の生きる今は常に暫定状況のまま、ここにある。

今日はこの「艦砲ぬ喰ぇー残さー」歌碑の前で、楚辺地区の慰霊祭が行われる。ユーバンタの公園に集まったのは付近の老若男女。米軍関係と思われるアメリカ人の若者もいる。地元の小学生が作った「ポーポー」という蒸し菓子が配られ、地域の人々による朗読や歌が続く。暮れゆく夏の最後の光を感じながら、出入り自由、ステージ前を横切って海に遊びに下りるも自由、ディスタンスもマスクもお任せの程よく弛緩した雰囲気が心地よい「町内行事」という感じで会は進んでいく。これは慰霊の日の慰霊祭だ。昼間のあの平和記念公園での追悼式と、本来の性質的には変わらない。しかし、ここではいかにも儀礼めいたムードも威圧的な車両も一切なく、「このユーバンタの海は昔は下水が垂れ流しの汚い海だったけど、そのおかげで台風の日に大水に流されたおじさんが下水を通って海に流れ出て助かった」といった笑い話を交えながら歌が披露され、穏やかなトーンではありながら平和への強い思いが語られる。ほとんどの成員の顔が知れているこの場には、他者を「数」という顔のない遠く抽象的な存在にすることでそれを自らの力や名誉の源泉とするような話法や強い言葉は必要ない。ただ集まることで、今日この日がどんな日で、この場所がどういう場所かという共通理解を改めて確認し合うという作業に何かしら寄与している。まさしく「シマ(沖縄で「シマ」というとき、アイランドではなく村落共同体を意味する)の慰霊祭」なのだ。
この日のハイライトは、1996年公開の映画『GAMA 月桃の花』の主題歌として作られ、今や沖縄を代表する慰霊の日の歌となった名曲「月桃」の、作者・海勢頭豊その人の演奏による歌唱。海勢頭氏は今日、南部の西原でこの曲の歌碑建立式に出席した後に、ここまで来ている。それを労うように、ステージ前には月桃の大きなブーケが四つ並ぶ。ふるさとの夏の情景をやさしく、そして物哀しく歌い上げるこの歌の披露を前に海勢頭氏は自らの平和への思いを語ったが、この慰霊祭の中で初めて、ヤマトや現政権のことを鋭く批判する言葉が発される。特に場がピリつくようなことはない。おそらく、ほとんどの人が同じ思いを抱いてここにいるのだから。それでも海勢頭氏が今日この場に初めて表出させた、これまでの流れとは異質な鋭さに、「このシマの外の人」を感じる。もちろん、その是非などない。最も忘れてはならないのは、その微妙な差異を感じる自分自身こそがさらなる「外の人」であるということだ。この島にこの歴史を強いながら生きている側の人間。島の人が島のことを語るトーンの違いに気づくことは、この場に限らずどこにでもある。だが、外の人間にはその違いをダシに是非を語る資格などない。それは「多数派が納得するようにものを言え」と平然と言い放つことと表裏一体の暴力だと思う。ただ見て、聞いて、受け入れて、考える。帰って、考えて、また来る。

メインアクトはもちろん歌って世に出した本人たちである「でいご娘」による「艦砲ぬ喰ぇー残さー」。言葉の意味がわからないまま聴けば、むしろ少しチルめののんびりした曲だと思うかもしれない。三線の響きとゆったりしたメロディ、比喩も多用されたウチナーグチのやわらかさにくるまれて、その言語空間だけが記憶している痛切さが少しのユーモアとともに歌われていく。それを受け止めるべきヤマトの我々、その悲劇を強いた歴史の先にいる我々は、何もわからないままにそれをゆったりと、ただエキゾチシズムを感じながら聴くかもしれない。身勝手にも、自分はそこに歯痒さを覚えるときがある。この島がこんなに美しい場所でなければ、歴史の荒波をいなすように発達した独自の旋律や舞踊がこんなにやわらかく優しいものでなければ、この島の怒りが、悲しみが、これほどまでに侮られることはなかったのではないか。そんなことを考えるときもある。
慰霊祭の締めくくりはやはりカチャーシー。結婚式など集まりごとの締めの定番となっている祝い歌「唐船ドーイ」に乗って、その場の老若男女その他すべてが手を挙げ、男は拳を、女は掌を、どちらでもない人はどちらでも好きなほうを、天に向けてくいくいと翻しながら踊る。カチャーシーは「かき混ぜる」といった意味。かつて沖縄戦の後、生き残った人たちが道端でばったり会った時、思わずカチャーシーを踊りながら互いに近づくということがあったという。彼らはお互いの生を寿ぎ合い、お互いの喪失を嘆き合い、他には何をかき混ぜ合っただろうか。今日一日の供をしてくれたソウル・フラワー・ユニオン『スクリューボール・コメディ』の一曲目「サヴァイバーズ・バンケット」を思い出す。生き延びたものたちの宴。墓場に花束だけを置いてしけた顔で帰るより、おまえの好きな唄で去った人を送り、月と踊ろう。どこかで逢う日まで、唄の続きをやろう。そんな歌だ。「唐船ドーイ」は中国から船が来航した那覇の民衆の興奮や高揚を歌った、出会いと歓待の歌。それが祝賀のニュアンスを保ったままお開きの、別れを前にした最後の光のようなカチャーシーになったのはいつからなのだろう。どこかで逢う日まで、唄の続きをやろう。

祭りのあと、場はゆるやかにほどけてゆく。「お疲れさまでした〜」といった声や、近況や、噂話や、明日の予定などをばらばらと皆が話し合いながら会場を後にし、帰路につく。こういう「地元のコミュニティのためだけの祭」において、この時間、明日もまたこれまでと大して変わらない一日が繰り返されていくのだと確認し合うようなこの時間が一番尊いような気がする。自分の生まれた土地にもかつてそれはあったが、今はもうどうだかわからない。どうだかわからない、というほどには離れてしまったという実感がある。明日からも続いていく日々のためにある祭の余韻と、自分はその中に本質的には存在しないし、自分にとってそういう場所はもうないのだという寂寞とした思いを抱きながら車を出し、宵闇に沈む県道6号線を南へと走った。

那覇に着く。松尾で一軒、牧志で一軒と軽く飲む。スクガラス豆腐、テビチ、石垣島の泡盛・請福。日付も変わる頃に桜井やビデオさんと合流した気がする。みんなそれぞれの日程を終えて疲れており、国際通り沿いのベンチで一杯飲んで解散した気がする。おそらくそこから、昨夜行けなかった泊の港に行った気がする。途中から「気がする」とばかり書いているのは一日の疲れと最初の二軒でそこそこ朦朧としていたからであり、カメラロールにも港の画像が残っていないからだ。泊の港で一日の最後の一杯をやるというのはほぼ習慣化しており、何も撮っていないことも多い。たぶん行っただろう。行ったつもりでその夜を思ってみる。沖縄島と久米島や慶良間諸島を結ぶ船のターミナルである泊港には「フェリーとかしき」や、船体に書かれた名前が「ざまみろ」にしか見えないといつも思う「ざまみ3」が今夜も停泊しているだろう。フェリーターミナルの軒下では、ダンサーたちが全面ガラスに映った振り付けを確認しながら練習しているだろう。のうれん市場のおばあさんも、炎天下の摩文仁を歩いていたお年寄りも、釣りをしていたおじさんも、くじらブックスの渡慶次さんも、楚辺の人たちも、みなそれぞれの眠りについているだろう。夜。今日と明日を区切り、しかし確かにつないでいる、何か。

安東嵩史

編集者、研究者、ドラマトゥルクなど。人間の移動と境界線上における文化事象の研究をし、長い時間軸を意識しながら制作をします。

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安東嵩史『国境線上の蟹』(休止中)
国境線上の蟹│トーチweb

『沖縄のことを聞かせてください』

著者:宮沢和史
発行:双葉社
価格:2,200円(税別)
発売日:2022年4月28日

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