6月23日は日本軍や米軍の死者も合わせると20万人以上の命が失われた沖縄戦が終結したということになっている日で、沖縄では「慰霊の日」という公休日。毎年、この日は激戦地の一つだった南部の摩文仁にある平和祈念公園で沖縄戦の全戦没者追悼式典が行われる。しかし、この日は単に日本軍の牛島満司令官が「あとは各々、死ぬまで戦え(意訳)」と言い置いて自決した日であり、終結したのは「日本軍としての戦闘指揮」に過ぎない。各地に散った部隊によってその後も散発的な戦闘は続き、9月7日に降伏文書が調印されたことで、ようやく沖縄での戦は公式に終結した。
平和記念公園に1995年に建立された「平和の礎(いしじ)」は、民間人・軍人合わせた沖縄戦における日米の全戦没者に加え、県出身者に関しては1931年の満州事変から終戦後に至るまで、この戦争を直接の原因として亡くなったすべての人の名前が刻まれた石碑だ。現在でも3000名弱の遺骨が収集されず原野に眠っていると言われるこの沖縄では、今でも新たに判明する戦没者名が後を絶たず、この「平和の礎」には毎年6月に合わせて追加の墓碑銘が刻まれ続けている。いくら誰かが「この日に終わった」と言おうが、式典や文書で形を整えたその薄皮を一枚剥がせば、今でも泥に塗れて遺骨を収集する人や、その帰りを待つ人がいる。わずかひと世代、ふた世代前を振り返れば、その経験を肌身に刻んだ人がいる。八十歳は過ぎていると見えたさっきのおばあさんもそうかもしれない。戦闘は終わったが、戦争は終わっていない。我々は常に長い「その後」の中にいる。「終わった」と「続いている」の間にある、永遠に確定しない何か。
CDを買わないと。高速のサービスエリアで売っているような、いい感じに枯れた民謡全集的なものがのうれんプラザにあれば一番いいと思っていたが、なかったので近くの中古レコード屋「宇座商店」へ。ロックやパンクが中心の品揃えの中から選んだのは、ブルーズシンガー、スクリーミン・ジェイ・ホーキンスの『Cow Fingers and Mosquito Pie』(1991)。収録された1956年のヒット曲「I Put a Spell on You」はジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で印象的に使用されていた。茫漠と暑い本島南部を走るドライブのお供によさそうだ。ソウル・フラワー・ユニオンのアルバム『スクリューボール・コメディ』(2001)があったので、これも買った。沖縄、在日、アイルランド、パレスチナ、世界中の虐げられた民とともにある歌を作ってきた彼らのこの作品は、自分がその後沖縄の島々やもっと広い世界を旅する中で常に心中に鳴り続けてきた重要な一枚。もう何百回聴いたかしれないし、何より家に帰れば21年前にボーカルの中川敬に神戸のタワーレコードでサインまでもらったオリジナル(?)盤があるが、今日ここで出会ってしまったら買わないわけにはいかない。道中で誰かに会ったらあげてもいい。自分の中に深く根を下ろし血肉化されてしまったものは、誰かに手渡しても消えはしない。所有と固有の間にある、何か。
カーオーディオにCDをセットし、一路南へ。豊見城から糸満を通るコースは新しくできたバイパスのおかげでだいぶ交通がスムーズになったとはいえ、今日は必ず混むだろう。道中にはひめゆり平和祈念資料館がある。今年は復帰50年という節目に合わせ、音楽家の宮沢和史と、それぞれの「沖縄」を生きる10人の人々とともに『沖縄のことを聞かせてください』という本を作った。その中で資料館にも大変お世話になったので御礼に寄りたかったが、さすがに今日は自分などの相手をしている暇はなかろうと連絡はしていない。そこで、内陸の南風原から八重瀬を通って摩文仁に向かうことにする。この島々に自分の意志で通いはじめて20年、どれも馴染みになった地名だ。豊見城、糸満、南風原、八重瀬、摩文仁。アメリカ軍に追い立てられ、日本軍に急き立てられて、この島の人々が歩いた道。市街地から郊外を抜け、農道を抜け、小高い丘を越え、今は一面のさとうきび畑が陽光に揺れる道を走る。誰もいない。『沖縄のことを聞かせてください』にご登場いただいた現代美術家の山城知佳子さんが沖縄戦をテーマにした制作の取材中に聞いた話として紹介してくれたエピソードを思い出す。<多くの人が亡くなった南部のほうでは、戦後、農作物が豊作になった、というもので。死者の体が養分となり、それまでになかったほど生き生きと色鮮やかに、大きな作物が実った。それを、みんな泣きながらむしゃむしゃ食べた……と>(p.333)。人々はどんな気持ちでそれを食べたのだろうか。親しい人を亡くした悲しみ、自分は生き残ったという罪悪感、「あの時ああしていれば」という悔恨、それでも飢えた体に染み渡る栄養の、ほとんど本能的な悦び。アッパーな曲が続いたので一旦オーディオを切り、無音で走る。
古い車は走行こそ支障ないが、サスペンションは固く路面の振動がもろに体に伝わってくるし、少し深めに左折すると左前輪あたりのシャフトが必ずギゴゴと音をたてる。「人様にお貸しするような車じゃ……」という言葉が陽炎の向こうに蘇る。陽は高い。誰もいない。そろそろ正午。あちこちでサイレンが鳴り、黙祷が捧げられ、平和祈念公園では県知事や総理大臣が何かを言うだろう。言葉になる声と言葉にならない声の間にある、何か。
追悼式が終わり、総理大臣もそろそろ去ったであろうという頃合いに、平和祈念公園にたどり着いた。しかし、門前から大渋滞。そのほとんどが式典の終わる時間を見計らって祈りや献花を捧げにやってきた地元の方の車と見える。駐車場がまったく空いていないのだろう。そのままじりじりと進み、ようやく平和祈念公園の敷地内に入ると、左手の大きな駐車場に浅葱色と白に塗り分けられ赤色灯を戴いた物々しい警備車両がずらりと並び、青藍色の制服を着た機動隊員が群集している。彼らの警護対象は、ほとんど総理大臣一人だろう。もちろんこの会場には県知事や県議会議長など沖縄の要人も多いが、彼らにこれほど物々しい警備がつく絵は想像がつかない。執拗にこの島の尊厳を汚してきた政権に対する怒りや不信が渦巻く中、自国民ではなくまるで敵のもとに赴くような厳戒警備。その脇で、地元の車は長蛇の列。この入り口近くの駐車場が使えなければ、遠く離れた奥まで行って車を駐めなければならない。炎天下を歩いてきたと思しき高齢者の姿も見える。総理大臣たった一人のために占拠された駐車場にそびえ立ち、島の人々の祈りを妨げる、浅葱と青藍の壁。辺野古や高江で抗議を行う人々を排除するのも、この浅葱と青藍の壁。天壇、紺碧、群青、瑠璃、天色(あめいろ)、縹(はなだ)。さまざまな青系の色の名が浮かぶ。美しい名前を持つ日本の色をこんな場面の表現に使いたくはないが、この島をどこまでも壁の向こう側の「捨て石」と扱ってきたこの国の醜い姿を、この光景に見出さざるを得ない。ヤマトと沖縄の間にある、「何か」では済まされない、軽侮と不信の壁。
結局、祈念公園の最奥まで行っても駐車できるスペースはなかった。今日は地元の方のための日なので、自分が駐車することは断念し、そのまま車の流れに沿って外に出る。天気もいいし、近くの慶座絶壁(ギーザバンタ)という戦跡に向かう。さとうきび畑が広がるなだらかな坂を、農道に沿ってくだっていく。沖縄島南端部の海岸線は、基本的にサンゴ石灰岩のゴツゴツした岩場や崖で構成されている。なかでもこのギーザバンタは西の喜屋武岬と並んで険しくそびえる断崖絶壁であり、直下には強い風にあおられた海が大きく坂巻く。沖縄戦末期、島の南端部に追い詰められた人たちは砲弾に倒れ、断崖から海へと身を投げ、岩場の陰で自決していった。ギーザバンタも例外ではない。このなだらかな下り坂を、人々は最期の場所へと向かっていった。空は天色、丘の向こうから姿を現すのは瑠璃の海。
崖のふもとにたどり着くと海岸の岩場に下りる細い階段があり、それは途中から単なる斜面に変わる。摩文仁の丘の地下には小規模な貯水ダムが造られており、そのおかげで土壌の保水力の弱いこの地域の農業は飛躍的に発展した。雨の多い時期はそこから溢れ出した水が地中を通ってこの海岸で滝となり、海へと注ぐ絶景が見られる。岩場へと下りる斜面は地中から流れ出した水で覆われ、流れに沈む草のつるつるした表面も相まって滑りやすく危険でもあるが、それだけに人はあまりおらず、静かに海を眺めるための絶好の場所でもある。しかし、今日は先客がいた。年配男性の釣り人が二人。口調から察するに観光客ではないようだ。昔は「慰霊の日に釣りをすると海に連れて行かれるぞ」などという怪談めいた話を聞いた気もするが、最近はみんなが気にしているわけでもないのか、そもそもあまりメジャーな話ではないのか。数多の命を飲み込みながら、この島に恵みを与えてもきた海。この南の海の彼方にある理想郷ニライカナイには死者の魂が集い、そして島に豊穣をもたらす祖霊神となって帰ってくるという信仰が琉球にはある。戦跡・理想郷・釣り人。おじさんがかじっている「かにぱん」の袋に描かれた蟹のイラストだけが、つるつるとした妙に世俗的な存在感で、この時間と空間を現実に引きとどめている。ズボンを膝まで捲りあげた裸足の脚を蟻が這う。この蟻も、岩場に無数にいる現実の蟹も、そして魚たちも、かつてこの地で息絶えた人々の肉を糧としただろう。77年、彼らの命を作った諸元素は草となり、蟻となり、蟹となり、おじさんがいま釣り上げた魚となって、この時間と空間の一部として存在している。絶対的な境界だとわれわれが思い込んでいる生と死を円環の一部分にしてくれる、何か。