『「これからの世界」を生きる君に伝えたいこと』ウスビ・サコさんの本を読みながら、しびれっぱなし。
「マリでは同じコミュニティの人たちが、常に一緒に生きるという意識を共有しています。ですから、なにか問題が起こったら、自然とお互いに助け合いながら解決を図ります」
ああ、そうか。不安なのは、お金じゃない。子どもが増えたとき、必要なものは、人のちからで。その、頼れるちからの相手や場所が乏しいことに、不安を感じているんだよね。
今年は、事務所とアトリエ、りんご売りの場をもつことになる。出費は痛いほどに、どかんと増えるんだけど、その代わりに、場が増える。人もお金も流れて動く場にしたいな。しなきゃな。
ともだちのタケヒロくんからもらった、リアルなうんこのおもちゃに興じる。みんなでバカ笑い。んははははははとおもいっきり笑ってみると、ほんとにおもしろくなってきて、うはははっはっはとなってきて涙がにじんできて、本気の笑いがみんなにも感染って、おひょひょひょひょ、うららっらららら、ぺよぺよぺよぺよと笑いがパンデミック。初笑いはうんこでした。
夜、『うまれるものがたり』(繁延あづさ)を読む。3人目を考えているので、今だなと思ったのだけど、予想以上に、今読むべしもので、沁みた。
「すばるくんのものがたり」で、バチンとなる。
「お産が進み、いよいよ赤ちゃんの頭が出るというとき、助産師さんが『出てくるよ!』と、すばるくんに声をかけた。彼は一瞬なんのことかわからない様子であたりを見回したあと、そうかと気づいたようにお母さんのお尻側に走り出た。そして、彼はまさに弟がうまれる瞬間を見た。途端に、彼は泣き出した。火がついたように泣いた。叫んでいるようでもあった。お父さんが歓声をあげて赤ちゃんを見ているときも、お母さんが急ぐように赤ちゃんを胸に乗せたときも、助産師さんがねぎらいの声をかけたときも、ずっと泣いていた。誰もが赤ちゃんがうまれたことに安堵し、笑顔で喜ぶ中で、彼ひとりは泣いていた。彼はお父さんの方を向いて泣き、お母さんの方を向いて泣いていた。」
恐怖なのか。畏怖なのか。わけのわからないものを迎える恐れと喜びが混沌となった感情を想像すると、たまんない。子どもはみなこの混沌の感情を抱えている。だからぼくは子どもを、子どもと侮りたくないのだ。子どもという存在を、ぼくは心から敬う。
歳だなあ。落涙。落ちる涙。フォーリングティア。
そういえば、今日は「あけましておめでとう」って言っていない。言ったか? 言ったな。言ってた。でも、ただ惰性でなんとなく言っていただけで、実感としては、「おめでとう」の気持ちがまったくこもらない。
去年は悲しいことがたくさんあった。親しい人がいなくなったり。つい数日前に、海老原宏美さんが亡くなられたし。ほかにも。うん。彼・彼女らの存在と、過ごした時間を想いながら、「あけましたね。みんなで今年もよろしくやってゆきましょう」という感じで、今年もレッツゴー。震えて揺れて透けてゆく私たち、ともに粛々と、淡々と、苛烈に。