なぜ女性同性愛なのか、という疑問
私は韓国で生きている人間ではない。だから、セウォル号事件という韓国社会に大きなトラウマをもたらした事件を扱ったこの作品を、どう受け止めればいいのか、セウォル号事件の前日譚という体裁で女性と女性の恋愛を描くことを選んだことをどう受け止めればいいのか、私にはわからない――そもそもどうして女性同士のクィアロマンスなのだろう?
もちろん、犠牲者や生存者の中にはきっとクィアな人々もいただろう。たとえカミングアウトしていなかったとしても、私たちはいつだって、どこにだっている。ただ、それとは別に、異性愛と同性愛に依然として非対称性が存在するこの社会において、物語の描かれ方も受け止められ方も同じではあり得ない、ということも事実なのだ。だからこそ物語の題材をどう選び、どう描くかということが問題になる。
たとえば歴史的に、同性愛の物語は悲劇の結末を迎えることが多かった。あるいは、少女はしばしば儚い一瞬のきらめきをもたらす形象だった。女性や少女は、生々しい人間というよりも美しさにのみ焦点が当てられ、観客の感動と涙をもたらすべく映画の中でしばしば死んでいた。同性愛と女性をめぐるこれらの傾向が交差する場に存在する女性同性愛は、だから、彼女たちを悲劇に追いやる社会の問題に焦点を当てられるよりむしろ、ただ美しく儚い何かとして描かれ、生きた人間というよりは美的な対象として愛でられるばかりであることが多かったのだ。近年のクィア映画はそのステレオタイプを打ち破るべく努力しているけれど、歴史的な傾向も、性差別や同性愛差別も、依然として消え去ってはいない。
だから私は、この映画をどう受け止めたらいいのかわからないのだ。光があふれる、彩度を落としたノスタルジックで美しいこの映画を。子どもらしく視野が狭く、いっぱいいっぱいで、懸命に恋をしていた少女たちがあの事件で引き裂かれてしまうこの映画を。それは先に述べたステレオタイプに、あまりにも似通っているから、戸惑ってしまう。だからこそ、戸惑いながら願っている。どうかこの映画が、ただ儚く美しい何かとしてのみ受け取られることがありませんように、と。映画が丁寧に映し出す少女たちの日常は、事件が奪ったかけがえのない人々、その生活、未来を強調している。事件のトラウマを正確に理解できるとは言えない様々な文脈でも、それがどうか伝わりますように、と。


