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平成のクィアパーティーからバトンをつなぐ。「こどくにおどるクィアの集い」イベントレポ

同じミラーボールの下で踊るために。今は亡きクィアから受け取った想い

人と本と音楽に出会えるクィアパーティ「こどくにおどるクィアの集い」。2024年10月19日にKoiwa BUSHBASHで開催された第3回目のテーマは「平成のゲイプライドとクィアな人々の歴史」。主催は、コミュニティ・オーガナイザーとして「集まるクィアの会」などのイベントを企画してきた燈里さんと、“ライブハウスをクィア化する”ためのDJイベントをスタートしたWARCLAYさん。ドラァグショーや鼎談、DJや本のブースなど、盛りだくさんな一夜となりました。

鼎談のゲストは、HIVの啓発や反原発、反人種差別など、さまざまな運動に関わってきたドラァグアーティストのMelodiasさんとMadame Bonjour JohnJさん、そして文化人類学者の砂川秀樹さん。今よりもずっとクィアへの差別や偏見が強かった1990年代の運動について話します。そして、現在新宿二丁目でパーティーを主催しながら、社会運動にも積極的に関わるDJ POIPOIさんへのインタビューも。

平成のクィアシーンから現在へ、そして、遠い未来のクィアまでバトンを繋げていけるようにと企画されたイベントを、レポートでもお届けします。今ある権利の歴史を辿り、さらなる権利を求めて踏み出すために。

クィアが可視化されてきた今、振り返る。先人たちが耕してきた道のり

「歴史を知ろう、権利を取り戻そう、文化を作ろう、クィアの喜びを共有しよう」と呼びかけるクィアパーティー「こどくにおどるクィアの集い」。前回は台北からのゲストDJを招き、台湾のクィア音楽シーンと政治について共有しました。第3回目となる今回は、日本のクィアの歴史を辿ります。クィアの歴史と運動は欧米を基準に語られがちですが、日本でもアクティビズムを続けてきた人たちがいます。

最初にステージに現れたのは、セーラー服と学ランを組み合わせた服を纏ったMadame Bonjour JohnJさん。中島みゆき“誕生”リップシンクしながら、鋤を振り下ろし畑を耕します。

平成のクィアパーティーからバトンをつなぐ。「こどくにおどるクィアの集い」イベントレポ

二番ではメガネをかけ腰を曲げて歌う。<ふりかえるひまもなく時は流れて 帰りたい場所がまたひとつずつ消えてゆく すがりたいだれかを失うたびに だれかを守りたい私になるの>

Remember 生まれた時だれでも言われた筈
耳をすまして思い出して最初に聞いた Welcome
Remember けれどもしも思い出せないなら
私いつでもあなたに言う
生まれてくれて Welcome

力強く色が塗られたプログレス・プライドフラッグを振りながら最後の節を歌い、ショーは終わります。

このパフォーマンスは、HIV陽性を公表して講演活動を行い、ゲイ雑誌を創刊するなど多岐にわたって活動していた長谷川博史さんが亡くなったときに考えたものだと、JohnJさんは話します。
「今はLGBTQ+の存在がだいぶ可視化されましたが、今に至るまでに社会を耕してきたたくさんの人のことを考えながら、このパフォーマンスを作りました」

中島みゆき“誕生”は、「Voice ~ for Gay Friends」という、ぷれいす東京が主催するHIVの啓発メッセージ発信などを目的としたコンサートイベントでゲイの合唱団がよく最後に歌っていた曲でもあると言います。

90年代を生きたクィアとして、HIVと向き合うことになったきっかけ

1996年に出会ったというMelodiasさん、Madame Bonjour JohnJさん、砂川秀樹さん。鼎談という形で一緒に話すのははじめてだそう。出会いのきっかけは、ドラァグクイーンであり、メディアアーティストグループ・ダムタイプのメンバーだった古橋悌二さんが亡くなったことだったといいます。

現代アーティスト(活動名:アキラ・ザ・ハスラー)としても活動している、ドラァグクイーンのMelodiasさん。美大在学時に通っていたクラブパーティーでドラァグクイーンをしていた古橋悌二さんが、はじめて出会ったゲイだったそうです。「醸し出す雰囲気全部が素敵で、アヒルの子供が最初に親を見たみたいに、いつもくっついて歩いていた」と振り返ります。ダムタイプオフィスの隣のギャラリーで働いていたというMelodiasさんは、1992年に古橋さんが友人たちに宛てたエイズ発症を知らせる手紙を受け取ります。その後、1995年に古橋さんはエイズによる敗血症で亡くなりました。

「親しい人を亡くした悲しい気持ちを誰かに話したかったけど、当時の二丁目は『宗教と政治とエイズの話はご法度よ』というような雰囲気だったんです。そこで雑誌でたまたま見つけたのが、新宿三丁目にあるタックスノットというバーで。そこのマスターの大塚隆史さんが、やはりパートナーをエイズで亡くしたということが書かれていました。そのマスターに会えば、もしかしたらこの話ができるのかなと思ったんです。また、当時は京都に住んでいたため、もっと新しい人に出会いたいと思い、東京に行きビデオインタビューをして作品を作ろうと思い立ちました。誰かに会ってはまた誰かを紹介してもらう形で輪が広がる中に砂川くんがいて、JohnJがいたんです」

平成のクィアパーティーからバトンをつなぐ。「こどくにおどるクィアの集い」イベントレポ

Melodiasさん(写真右)

ダンスをきっかけに舞台に立つようになったMadame Bonjour JohnJさん。ダムタイプとコラボもしていた黒沢美香さんのスタジオに通っていたことから、黒沢美香さんを通して古橋悌二さんの手紙を読んだといいます。さらに1994年に横浜で行われた国際エイズ会議に行ったことが、HIVに触れるきっかけになったそう。

「世界中のHIV陽性の人もそうじゃない人も、セックスワーカー、肌の色が違う人など、いろんな人がどんどん舞台に出てきてスピーチをしていました。そしてドラァグクイーンショーもあって、最後はみんなが舞台に上がって踊ったんです。いろいろな人たちが自分のことを主張した後にみんなで踊るという、その肌感覚がすごく焼き付いています」

その後、自身でもパーティーをオーガナイズしはじめたというJohnJさん。1997年には「JUICY!」という、属性を超えた人々が集まって踊り、ドラァグクイーンやさまざまな人が実験的にパフォーマンスができるようなイベントを作ったといいます。

平成のクィアパーティーからバトンをつなぐ。「こどくにおどるクィアの集い」イベントレポ

Madame Bonjour JohnJさん

文化人類学者の砂川秀樹さんは、1990年にゲイリブ(ゲイ解放運動)に参加し、その後HIVの啓発活動へと移っていったといいます。当時、HIVの薬は今ほど発達しておらず、エイズを発症すると2、3年以内に亡くなってしまうことが多い病気でした。砂川さんは直接的なケアには関わっていなかったものの、電話相談を受けていたといいます。

「当時海外で認可されていた薬の日本での認可を求めて運動していた人などが亡くなっていきました。直接やりとりがあったわけではありませんが、事務所に来なくなり亡くなったことを察するというような経験をたくさんしましたね」

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砂川秀樹さん

社会運動と二丁目。HIVやパレードの話が疎まれていた90年代を振り返る

さまざまな運動に関わってきた3名ですが、必ずしも二丁目などのクィアコミュニティで受け入れられたわけではなかったと振り返ります。

当時はゲイバーなどでもHIVにまつわる話がタブー視されていたなか、二丁目で「コミュニティセンターakta」の立ち上げに関わったMelodiasさん。2005年ごろからはJohnJさんも一緒にaktaでの活動をはじめたといいます。

1990年代後半、NGOと現在の厚生労働省が共同で疫学研究班を設置しました。その予算を通して、さまざまなHIV啓発活動が行われたといいます。コミュニティセンターaktaも、厚生労働省委託事業としてゲイ / バイセクシュアル男性向けのHIV感染予防、HIV抗体検査の啓発を行ってきました。

Melodiasさんは、病院で診療拒否される当事者がいたり、ゲイバーでHIVへの感染が悪口として噂されたりするような状況で、まずはHIV陽性者が街に出てきやすくなるようにしようとさまざまなプロジェクトを行なったといいます。

砂川さんは、現在の東京レインボープライドの前身となる「東京レズビアン&ゲイパレード」の復活に携わりましたが、それも一筋縄ではいかなかったと話します。日本で最初のパレードは1994年に立ち上げられましたが、1996年に舞台上で実行委員会と参加者による対立が起こって以来、パレードは中断されていました。復活を望む声が高まる中、HIVの活動で名前が広がっていた砂川さんが2000年に実行委員長として再び立ち上げる形になったといいます。

「今でこそパレードは大規模になり、社会的にもパレードの代表はLGBTQの代表のように見られます。しかし、私たちがやっていた当時はコミュニティイベントのようなもので、代表なんて誰もやりたくないけど、引き受けるというものでした。二丁目でHIVの話がネガティブなイメージだったという話がありましたが、パレードも同じでした。ゲイバーでパレードをやっていると言うと、すごく嫌な目で見られましたね」

「クィアは本当にいろんな人の遺族にならざるを得ないようなところがあるけど、自分は受け取ったバトンを持って走れてるのかな」(Melodias)

2024年に開催された東京レインボープライドでは、2023年に亡くなったドラァグクイーンのオナン・スペルマーメイドさんとタレントのryuchellさんへの追悼が捧げられたそう。JohnJさんさん、Melodiasさんはオナン・スペルマーメイドさんと共に、パーティー「JUICY!」を作ってきました。Melodiasさんは、そのような追悼が行われることをポジティブに思う反面、公には追悼をされることのない、これまでに亡くなった、たくさんのクィアの人々のことを想ったと話します。

「30年前に、谷郁雄という詩人の言葉を読みました。詩人の仕事というのは、生きている人と死んだ人の間に線を引くことではなくて、いかにして亡くなっていった人たちと自分たちが一緒にご飯を食べるか、そういう食卓を作ることが詩人の仕事だと言っていて。ドラァグクイーンをしたりパーティーを作ったりする僕たちの仕事は何だろうと考えたときに、生者と死者の間に線を引かずに同じミラーボールの下で踊れるような、そういう試みがやれたらいいなと思いました」

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故人の写真を流しながら、それぞれの思い出を話していく。奥のスクリーンに映るのは、日本のドラァグクイーンカルチャーを牽引してきたオナン・スペルマーメイドさん

2000年の「東京レズビアン&ゲイパレード」の復活時、新宿二丁目では後夜祭として「レインボー祭り」がはじめて開催されました。パレードに合わせた二丁目での祭りの開催について相談したことで、実行委員長として旗振り役を担ったのが、二丁目でゲイクラブなどを経営していた川口昭美さんです。その後、彼は「新宿二丁目振興会」を作り初代会長になりましたが、2002年に50歳で亡くなりました。

2000年のレインボー祭りには何千人もの人が集まり、さらにサプライズでビルの屋上から20発の花火が上がったそう。その場にいた人たちがみんな崩れ落ちて泣いていたと、Melodiasさんは振り返ります。

イベントフライヤーにも2000年の花火が上がっている

パレード後のゴミの片付けをしていて花火を見れなかったという砂川さん。親友の春日亮二さんが、砂川さんにも見せたかったと泣いていたそう。

「彼もHIVを公表していました。私にとっては本当にかけがえのない存在です。2000年のパレード復活のときは本当に死にそうになっていましたが、彼が助けてくれました。私がバーンアウトして、もうパレードはできないとなったときに、『砂川がやったパレードだから続けたい』と実行委員長を一生懸命探してくれました。当時は本当に誰も実行委員長はやりたくないというような状況でしたが、なんとか探して、2回3回と続けてくれました」

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スクリーンに映るのが春日亮二さん

韓国のクィアとも交流のあったMelodiasさん。アクティビズムで身をすり減らしてしまったときに出会ったのが、イ・ドジンさんとパク・チョリさんカップルだといいます。33歳の若さで亡くなったイ・ドジンさんは『DUIRO』というクィアマガジンを作っていました。毎年、ヘイターたちに取り囲まれるソウルのクィアパレード。しかし、その度に対抗し、ヘイターたちをかき分けるようにしてパレードがスタートする様子に「もう1回生きるか、と思わせられた」とMelodiasさんは話します。

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スクリーン左に映るのがイ・ドジンさん。右がパク・チョリさん

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『DUIRO 3 “Roommate”』

古橋悌二さんは死の直前、ニューヨークやヨーロッパで見たクィアの姿を、Melodiasさんにうわごとのように伝えていたといいます。一番印象だった話として、ニューヨークのクラブでの出来事を挙げます。

「Sound Factoryというクラブで仲間たちと踊っているときに、よく見たら酸素ボンベをつけて点滴の棒をもちながら踊っている、病院を抜け出したであろうエイズを発症したクィアがいたそうで。それがすごく幸せな空間だったということを教えてくれたんです。だから私も、いいことなのか悪いことなのかは分からないけど、酸素ボンベを持って点滴を打ちながら、それでも遊びに行きたくなるようなパーティーをやりたいなと思いました」

クィアにとって、今よりもずっと死が近かった90年代。病院を抜け出して仲間たちと踊り、束の間の自由を謳歌する姿は、クィアとしての生と抵抗のエネルギーに満ち溢れていたのだろうと想像します。

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スクリーンに映るのは、ドラァグパフォーマンスをしている古橋悌二さん

Melodiasさんは、さまざまな人の死を追悼するだけでは終わらせたくなかったと話します。
「クィアは世界中で、やたら人が死ぬじゃないですか。本当にいろんな人の遺族にならざるを得ないようなところがあるけど、自分は受け取ったバトンを持って走れてるのかなということを今年すごく考えました」

JohnJさんも、「日頃あまり会わないであろう若い人たちがいっぱい来てくれてすごくうれしい。次に繋いでいける」と話します。

♡鼎談に出てきた人々

長谷川博史さん
HIVを公表しながら、ゲイ雑誌『G-men』などを創刊。「『メイクしてくれ!』と言いながらいつも『JUICY!!』に来てくれていました」(JohnJ)

川久保昭弘さん
コミュニティセンターaktaを運営していた団体である「レインボーリング」や「JUICY!」のロゴマークを作るなど、デザインを通して後押しをしてくれた。

花太郎さん、ゆうぢさん
「この2人は本当におしどりカップルで。花太郎くんが先に死んじゃいましたが、ゆうぢくんは喪失感とかを表に出さずに、僕らのパーティーやaktaでのアクティビティも全部後ろからニコニコ見ていてくれる人でした」(Melodias)

佐藤郁生さん
同性婚裁判の原告でもあった佐藤さん。「『ぷれいす東京』で一緒に活動していました。彼もいろんなイベントに必ず来てくれるような素敵な人でした。ニコニコして、ふわふわしてるけど、勇気の人です」(砂川、Melodias)

林夏生さん
LGBT法連合会代表理事だった林さん。「杉田水脈の『生産性』発言のときに、多分そんな性格の人じゃないのに抗議のスピーチをしていて、それがすごく良かったです。『いったい何人見送ればいいんですか?』と言っていたことをよく覚えています」(Melodias、砂川)

チョン・ナファンさん
韓国で活動していたアーティスト。クィアの生と死、人権の闘いをアーティストとしてどういうふうに関わるか、強く思いつづけ作品を作っていた。

竹崎和征さん
アーティストの竹崎さん。「彼はクィアではないですが、aktaのイベントでも『JUICY!』でも、いつも横でニコニコして支えてくれる人だったんです。僕はクィアだけで集まるよりはもうちょっと窓が開いた状態のところが好きで、その窓からいつも入ってきてくれる人でした」(Melodias)

三島タカユキさん
カメラマンとして活動していた三島さん。ヘイトデモを追いかける人の姿を形に残すためにいつもカメラを持ってきていて、同じようにパレードの参加者の写真も撮ってくれていた。

ECDさん
ラッパーであり、反原発、反レイシズムのデモなどに参加していた。「あるデモでは、病院から抜け出してきたような格好で、路上の街灯ポールによじ登ってコールしていたことが印象的です」(JohnJ)

DJパトリックさん
90年代前半と、かなり早い時期にゲイでHIV陽性であることを公表していた。セックスやHIV、セックスワーカーの話などを積極的に表に出し、楽しく話すことを目指し続けた。

<わたしの愛が 愛なんかじゃないと言わないでください>

Melodiasさんの最初のショーは、イ・ソラ“愛ではないと言わないでください”背景には、鼎談に出てきた故人の写真が流れます。

내 사랑이 사랑이 아니라고는 말하지 말아요
わたしの愛が 愛なんかじゃないと言わないでください

그대 없이 나 홀로 하려 한다고 나의 이런 사랑이
君無しで一人でやろうとする わたしのこんな愛が

사랑이 아니라고 나를 설득하려 말아요
愛なんかじゃないと 説き伏せようとしないでください

※訳:Melodias

“Chosen Family(選ばれた家族)”という言葉があるように、血縁ではないつながりが大きな支えとなるクィア。「クィアはいろんな人の遺族にならざるを得ない」とMelodiasさんは話しますが、喪失を抱えながらも生きること、進もうとし続ける覚悟のようなものが感じられました。
手は届かなくても歌や言葉は届くのではないか、どうか届いてほしいと願うような切実さが溢れます。

大きなランプシェードを頭に被ったJohnJさんは、松任谷由実“翳りゆく部屋”を歌い、サン=テグジュペリ『星の王子様』を朗読します。

ランプを灯せば街は沈み
窓には部屋が灯る
冷たい壁に耳をあてて
靴音を追いかけた

どんな運命が愛を遠ざけたの
輝きはもどらない
わたしが今死んでも

ガウンを開くと、中からいくつもの小さな光が現れます。会場からは「うわあ」という歓声が。小さくもたしかな灯火として私たちの目に届き、それぞれを受け止めようとするかのように会場は静寂に包まれます。

クィアを支える人々と、話すだけではないつながりを

ショーを見てトークを聞いたあとは、ゆっくり座っておしゃべりも。二丁目の歴史やクィア・アクティビズムについてさらに知るきっかけになるようなブースも用意されていました。

1994年に設立された「ぷれいす東京」は、30年間HIV / エイズとともに生きる人たちがありのままに生きられる環境を創り出すことをめざして活動しています。砂川秀樹さんも設立当初から参加し、現・厚生労働省主導のエイズに関する研究も行ってきました。ブースではセクシュアルヘルスにまつわる情報が並びます。

東アジアのクィア書籍を扱うloneliness booksのブースでは、イ・ドジンさんが作っていた雑誌『DUIRO』などを中心に、鼎談で触れられた故人にまつわる書籍が並べられました。

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loneliness booksのブース

話して、踊って、学ぶ一夜をお腹から支えるのは、写真家としてさまざまなデモの様子も記録しているpoyo²さんによるカレー。ヴィーガンオプションもあり、スパイスカレーとさまざまな付け合わせを混ぜて食べる、ぜいたくなカレーでした。

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poyo²さんによるカレー

女性が入りづらい二丁目でのパーティーの工夫。「ゲイ男性としてどのようなことができるのか考えています」

ショーやトークの合間には、3名のクィアのDJが登場。少しずつジャンルの異なる音楽のなかで、自由に踊る人々の姿がありました。

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イベントの主催者でもありDJのWARCLAYさん

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VÏVÏさん

DJ POIPOIさんは、新宿2丁目をベースにDJ、オーガナイザーとして活躍しています。MelodiasさんやMadame Bonjour JohnJさん、砂川秀樹さんなどのクィア・アクティビズムを通して二丁目を支えてきた人々の次の世代として、DJ後にはインタビューが行われました。

ゲイ男性向けのパーティー「BEEF CAKE」、そしてジェンダーやセクシュアリティ問わず遊べるパーティー「CLUB SKIN」を開催しているDJ POIPOIさん。東アジアや東南アジアのDJをつなぎ、クィアの権利に限らず、パレスチナとの連帯などを意識したパーティーを作っています。そのようなパーティーの場づくりには、ロンドンや韓国のクラブカルチャーに影響を受けたといいます。

「二丁目に通いはじめる前、ロンドンに2、3年留学をしていました。Night Slugsというレーベルの人たちと一緒に暮らしていたんですが、ダイバーシティがピュアに存在していた空間で、好きなアーティストの話とイギリスの白人主義と植民地主義の批判や政府批判がフラットな形で話されていたのがすごく楽だったんです。音楽性はもちろん、人としてのあり方も学んで東京に戻ってきました。また、もうなくなってしまいましたが、韓国・梨泰院にあるTrunkというクラブにもよく行っていました。苦しさを抱えたゲイの子たちが集まってエネルギーを爆発させている様子にとても感動しました」

「パーティーのあり方はまだ模索中」と話すDJ POIPOIさん。2024年12月27日に行うCLUB SKINのイベントは、女性にも開かれたパーティーにしたいと考えているそう。

「やはり二丁目は女性が来づらい環境になっています。二丁目には400軒ほどバーがありますが、レズビアンバーの数はその10分の1ほどだと言われています。レズビアン向けのクラブは一つもありません。今回のイベントでは女性のDJを呼ぶことはもちろん、女性向けのセックストイを扱う企業に協賛に入ってもらったり、女性による女性のためのDJワークショップを企画してみたりなど、ゲイ男性としてどのようなことができるのか考えています」

「クィアの喜びを共有しよう」傷や喪失と共に生きていくための表現や喜び

最後のショーに、鮮やかな緑色のドレスで登場したMelodiasさん。ゲイ・アイコンでもある女性アーティスト、シャーリー・バッシーがカバーをした『ティファニーで朝食を』の“Moon River”を披露します。

Two drifters off to see the world
さすらう二人が世界に旅立つ

There’s such a lot of world to see
世界は見たいもので溢れている

We’re after that same rainbow’s end
私たちが目指すのは、同じ虹が終わるところ

Waiting round the bend
あの曲がり角で待っている

My Huckleberry friend, Moon River, and me
懐かしい大切な友達、ムーンリバー、そして私

※訳:筆者

ゆっくりと川を漕ぎながら、月明かりが小さな船を照らします。果てしなく思えるような長い旅路も、苦しいだけでなくたくさんの煌めく瞬間があるのかもしれない、そんな希望を感じました。

ショーの終わりには「따로 또 함께」「EACH, TOGETHER」という文字が映し出されます。「別々に、そして一緒に」という態度は、運動に限らず、完全には分かりあうことのできない他者と寄り添って生きることについて思い出させてくれます。

エイズで多くのクィアが亡くなった90年代。たくさんの大切な人を看取りながら、もしくは看取れなかったなかで、当時を振り返るMelodiasさん、JohnJさん、砂川さんの目に映るものが悲壮感ではなかったことがとても印象的でした。傷や喪失と共に生きていくための表現や喜び。悲しみ苦しむだけではない運動の姿に、「こどくにおどるクィアの集い」が掲げる「クィアの喜びを共有しよう」という合言葉をより実感するような会でした。

「こどくにおどるクィアの集い」

本とDJとゲストのトークを交えたクィアパーティ。オーガナイザー初心者とDJ初心者がタッグを組み実験的に始動し、現在も参加者たちと模索しつつ進化中。クィアコミュニティをベースにクィアカルチャーの発信と創造、権利回復を目指すパーティ。

Akira the Hustler/Melodias

1969年東京生まれ。京都市立芸術大学大学院絵画研究科修了。
1990年代はセックスワーカーとして働きながら、HIVをめぐるアクティビズムにアーティストが関われる方法を試行錯誤する。
1995年からドラァグクイーン 、Melodiasとしてリップシンク・ショーを始める。名前の由来は「Melody of Ass」。京都、大阪、東京、ベルリンやパリなどで友人達とパーティを作り続ける。
2000年より、Akira the Hustler名義で、国内外の展覧会に出品。
2003年から2011年まで東京、新宿二丁目でHIVを巡る情報の提供を目的としたコミュニティセンターの運営に参画。
2004年からはLGBTQを含む、HIV陽性者やその周囲の人々のリアリティを可視化するプロジェクト「Living Together計画」のスターティングメンバーとして参加。
2013年から、反原発デモやレイシストカウンターの現場で知り合ったクラブシーンをDJ TASAKAをはじめとする友人たちと作ったパーティー・コレクティブに「Blend is Beautiful」と名付ける。プライドパレードにサウンドカーで乗り込んだり、歌舞伎町Be Wave、原宿のGALAXY銀河系などの最高の箱で繰り広げられた忘れがたいパーティーに参加して来た。

◆主な展覧会:
個展(OtaFineArts/Tokyo)、「ゲームオーバー」展(WATARI-UM/Tokyo/2000)、「どないやねん」展(国立パリ美術学校/
France/1999)、「あきまへん」展(Maisonde
Folly/Lille France/2004)、「アート一日小学校展」(WATARI-UM、2001)「Post Gender展」(HaifaMuseum/Israel/2005)「Life
展」(水戸芸術館/茨城/2006)、「Love’s
Body」展(東京都写真美術館/Tokyo/2010)、「Reborn Art Festival」展(宮城県石巻市/2017) 「Street Justice」展 (Galaxy/Tokyo,2018)

◆主な出版物:
「売男日記」「The Rose Book」(東京/イッシプレス刊)「남창일기」 (ソウル/Sunny Books)

Madame Bonjour JohnJ

1990年から国内外の舞台に立ち、日々「YES! Future」と謳い続けるアーティスト。1997年より交歓のAll Mix Party「JUICY!」を主宰するなど、個人の違いを超えてデアウ「時空間」を創造。2015年「TOKYO RAINBOW PRIDE」総合司会。2022年に国連「UN in Action」シリーズ『Beyond Boundaries: Drag Queen of Tokyo』(『境界を超えてー東京のドラァグクイーン』)に取り上げられ、世界に向けて配信された動画が注目を集める。子どもに性の多様性を伝える絵本パフォーマンスや身一つでどなたでも参加できる、ひとりひとりの存在を肯定し合う身体ワークショップ「HUGたいそう」を展開中。「ドラァグクイーン・ストーリー・アワー」運営メンバー。

また長年新宿二丁目のコミュニティセンター aktaセンター長を務め、2012年に有志とNPO法人aktaを設立。HIVのリアリティを伝える「Living Together」の活動や支援に携わる。

主な作品・公演:
「HUGたいそう」(WATARI -UM/2001,,水戸芸術館,NHK#ジューダイ他)、「ジャンジ♥荒木順ソロ公演3days(隅田川左岸劇場べニサンピット/2003)、「Living Together/Stand Alone」(東京都写真美術館/2010,SHIBAURA HOUSE,Arch/2017)、「光の広場」TURNフェス,富塚絵美他/東京都美術館/2017)、「The のど自慢 Yes!Future~性を語ろう」TURNフェス(東京都美術館/2019)、絵本「キボウちゃん」(イッシプレス/2001)、ZINE「instnat♡」(1994~1996)
映像作品:「La vien Rose」「JUICY!」(shinkansen/2004)「ジャンジ🖤 <ワークショップ>「ハグってなーに?」(WATARI-UM/2006)、「HUGたいそう〜おうちでハグハグ」(2020) ほか

国連『Beyond Boundaries: Drag Queen of Tokyo』(『境界を超えてー東京のドラァグクイーン』)

ウェブサイト

砂川秀樹

文化人類学者。1990年からHIV/AIDSに関する市民活動や研究に従事。新宿二丁目の研究をしていた大学院生時代、2000年に、「東京レズビアン&ゲイパレード」を実行委員長として開催。その後、同パレードの母体団体TOKYO Prideの代表を務めるなど、2000年代の東京のLGBTパレードを牽引した。2011年に故郷の沖縄に戻り、2013~17年、沖縄初のLGBTプライドイベント「ピンクドット沖縄」を共同代表として実現。2016年には、東京に居を戻した。著書に『カミングアウト』(朝日新書)、編著に『カミングアウト・レターズ』(太郎次郎社エディタス)。新宿二丁目を研究した博士論文は、『新宿二丁目の文化人類学』(太郎次郎社エディタス)として出版されている。

DJ POIPOI

東京を拠点に活動するDJ/イベントオーガナイザー。 英ロンドンでサウンドデザインを勉強中、レコードレーベル「NIGHT SLUGS」の元で働き、DJを本格的に開始する。 選曲はグローバル&ローカルなダンスミュージックを中心に、さまざまなジャンルをクロスオーバーする。 これまでにKELELAやROMY、MOBILE GIRLなどのクイアアーティストと共演するほか、「i-D」「BUTT」といった海外誌のイベントでプレイを行っている。 現在は、新宿二丁目にて音楽と性とカルチャーを橋渡しする実験的音楽パーティー「CLUB SKIN」と「BEEFCAKE」を主宰している。

Instagram

『こどくにおどるクィアの集い』

日時:2024年10月19日(土)18:00〜23:00
会場:Koiwa BUSHBASH
主催:燈里、WARCLAY
出演: MELODIAS、MADAME BONJOUR JOHNJ、砂川秀樹、DJ POIPOI、VÏVÏ、WARCLAY
出店:poyo²、ぷれいす東京、loneliness books
協力:FIFTYS PROJECT

※本イベントは終了しています。

4人の女性DJによるDJワークショップ@新宿二丁目

日時:2024年12月4日(水) 19:00 – 23:00
会場:AiSOTOPE LOUNGE 東京都新宿区新宿2丁目12-16セントフォービル 1F

DJ WORKSHOP BY
MAYUDEPTH
DJ CENTERFOLD
Katimi Ai
DJ EYELASH

・未経験者+初心者向けのワークショップです。
・予約不要+手ぶらで参加OK 
・参加費無料(1ドリンクオーダー制)
・途中参加+退散OK

Supported by VIBEBAR WILDONE, iroha

詳細はこちらから

『売男日記 / 妓男日記』

著者:Akira the Hustler
価格:3,000円(税別)

二十世紀の終わり頃。
ぼくはセックスワーカーとクィアの生活を明るい陽の光の中で描きたかった。 

2000年に初版、2018年に韓国でも出版された
美術家、アキラ・ザ・ハスラーの名著『売男日記』が2025年 1月、待望のリニューアル復刊!

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