連載
連載:バカでか感情のゆくえ/510373
2024/12/11
見る者を夢中にさせる、アイドルやさまざまな物語の存在。「推す」ことが社会現象にもなるなかで、その行為におけるポジティブな面も、ネガティブな面も語られるようになってきました。
K-POPを入り口に、現在は二次元、日本のアイドルにも幅を広げながら、長年誰かの表現や表現者そのものに思い入れる状態が続いているという510373さんも、アイドルと向き合う自分の人生にさまざまな葛藤があると言います。他人を応援すればするほど、元気をもらったり楽しさを受け取ったりするのに、同時に現実を突きつけられる。けれど「思い入れた」状態からなぜか離れられない。そんな自分は、この感情は、これからどこへ向かっていくのか。
アイドルや物語を受け取る一人ひとりにもまた、個別の人生がある。「推し活」ブームでくくれない、一人のオタクのカオティックな揺らぎを記録する連載です。
“I used to be normal!!!!” 一人の女の子がOne Directionの映像を見ながら泣き叫ぶ。画面に映るのは大好きなハリー・スタイルズの姿だ。瞬間的に溢れてくる感情をどうにもコントロールできない。それでも、自分がまともな状態じゃないことはわかっているんだという一抹の客観性と、彼らに出会う前はこんなじゃなかったんだというどこ向けなのかわからないエクスキューズ。「昔はまともだったんだあああ!」という叫びは、そのぐちゃぐちゃなすべてが混ざり合った果てに放たれた言葉なのかもしれない。人はその姿を見て「こいつ、まともじゃねえな」と思うのだろうか。思うんだろうなー。でも、まともってなんなんだ。
これはボーイバンドに夢中な4人のファンガールを追ったドキュメンタリー映画『I Used To Be Normal: A Boyband Fangirl Story』のワンシーンであって、わたしは好きなアイドルを見て泣き叫んだり我を忘れて取り乱したりしたことは今のところない。というか、なんらかの自意識が邪魔しているのか、できない。
でも、ライブを見ていて、脳内ではやばい最高無理しぬみたいになることはあるし、なんかわかんないけどこれ以上見てたら自分の中の何かが爆発してしまうからもう帰りたいみたいなこともままある。突然、目の前の光景と自分だけの世界が立ち上がって、ほかはなにも入ってこないみたいな感覚。感情の入れ物が空気をいれすぎた風船みたいに膨れ上がってて、脳味噌はフル回転でそれを処理しようとするけど、言葉を気持ちが追い越していくからなんも言えねえ。ゆらゆら帝国の曲で<何時電話しても居ないって言うけど 頭の中で爆音で音楽が鳴ってるから聞こえねえよ>って歌詞があるけど、あの感じ。なんでそんなふうになってしまうんだろう。
「すぐ思い入れるじゃん」って友達に言われたことがあるが、わたしはすぐ思い入れる。自分がないみたいに、よく知らない不安定なものに簡単に感情を委ねてしまえる。そんなふうに自分と直接的に関わりがあるわけでもない、自分のことを知る由もない存在に、こんなふうに感情や脳内のキャパシティを埋められてしまうことって、やっぱり「まとも」じゃないんだろうか。
30代にもなれば、結婚したり子どもがいたりして、もっと身近な他者に物理的にも精神的にもリソースを割いていたりするのが、この世の中で想定されている「まともな大人」なのかもしれない。あるいは、キャリアアップのために頑張ったり、家を買ったり保険に入ったりしている友達もいるけど、それも「大人」っぽいし「まとも」っぽい。だとしたら、自分は「まとも」ができない現実から逃げているだけなんじゃないか。空想の世界に迷い込むみたく、遠くて不安定な存在に思い入れる前に、もっと向き合うべきことがあるんじゃないか。それなりに長いこと「オタク」をやっているけど、いつからかそんな考えが頭から離れなくなった。
思えばわたしはたぶん子どもの頃からいつも何かのファンで、ミュージシャンやアーティストなど誰かの表現や表現者をすごく好きであるという状態でずっと生きてきた。それでも、こんなふうに「まともじゃなさ」について考えるようになったのは、10年ほど前にK-POPにハマって初めてアイドルを熱心に見るようになってからで、年齢を重ねるとともにその考えがつきまとうようになった気がする。
だって、よく知らない人のことを勝手に好きになって、勝手に幸せを願ったり、その人が楽しそうってだけで泣けたり、そんなこと経験したことがなかったし、自分にそんな感情があったことにも驚いた。その人のことは仕事として見せてくれている部分しかわからないから、勝手に気持ちを想像することはしないようにしているけど、これはだいぶ気持ち悪い感情だなという自覚はある。もちろん自分の身近な大事な人たちにも心身健康で幸せでいてほしいと願っているけど、例えば友達が楽しそうにしてたから泣くとかはないから、なんで自分はこんなことになってしまったんだ? という混乱のままここまできてしまって、なぜかそれを未だ肯定しきれていないらしい。
「一般的」とされるマジョリティ的な人生計画をこなしているから「まとも」というわけでは当然ないし、そもそも「まとも」と「まともでない」の線引き自体がめちゃくちゃ暴力的で、あるべきでないとも思うのに、誰かがつくった「まとも」なんて絶対に抗いたいはずなのに、アイドルやフィクションに感情を持っていかれては、次の瞬間、この社会で確からしい「まとも」に脅かされている自分がいる。アイドルを見ていると、束の間、現実の色々から離れられたり、元気をもらったりしてすごく楽しいけど、同時に「このままでいいのか?」と現実を突きつけられる内省が背中合わせでやってくる。
というか、この「まとも」の呪いはたぶん小さい頃から自分で内面化してきたもので、アイドルにハマらなくてもずっと付き纏っていたのだとも思う。頼まれてもないのに勝手に好きになって、誰にも何も言われてないのに勝手に葛藤してるって馬鹿みたいだ……。
そこへきて、ここ数年の「推し活」ブームというやつは、アイドルや二次元などのファンでいることを、自分にプラスになる、どことなくアッパーでポジティブな活動として取り上げていたからか、最近は「推しがいるのが羨ましい」と言われることもしばしばあって、そのたびに答えに詰まってしまう。自分のためになるから好きなわけじゃなく、ただ好きになっちゃって、それが結果的に自分の力にもなってることがあるってだけなんだよ。「推し活」として分析できるのは可視化されている集団的な行動だけかもしれないけど、その下にはたぶん一人ひとり中身も大きさも違ういろんな気持ちがあるんだよ(だからといってファンであることを盾にした人権侵害的な行動が肯定されるとは全く思わないです)。
それを知ってほしいと思うわけじゃないけど、でも自分にとって何かをすごく好きでいることは、もっとぐちゃぐちゃした、ポジティブだけでもネガティブだけでもない、清濁入り混じったカオティックな現象のようなものな気がする。団結して応援するとかじゃなく、個人的で、原始的なもの。そもそも「活動」をしている感覚はなくて、「状態」というほうが自分にはしっくりくる。アイドルや作品に思い入れがちで、思い入れっぱなしの状態のまま日々生活をしているだけというか。
自分の好きなアーティストやアイドル、作品と自分のあいだには、自分しか知らない物語があって、それは誰にも冒すことができない自分だけの城のようなものだと思う。自分がその人を応援する理由は、自分の中にしかない。その城の中の自分はめちゃくちゃ本当の自分で、そういう意味では何かのファンとして感情を持ってかれてるときこそが、自分にとっては一番「まとも」な状態なのかもしれない。だとすれば、わたしはずっとまともだった。
それでも「わたしはかつてまともだった」というエクスキューズが漏れ出る気持ちはよくわかるし、遠い他者に対してでかめの感情を抱えて生きていることを、なぜだか許されたいとも思ってしまう(10代の「わたしはかつてまともだった」と30代の「わたしはかつてまともだった」は意味合いがだいぶ違いそうだけど)。それは「推される」人たちの負担や労働環境、ビジネス構造のこと、ファンの過激な振る舞いとか、それらの悪質な面を認識しながら、その構造に組み込まれた「オタク」であることをやめられないからなのかもしれないし、いい歳して「まとも」な暮らしをしてないような気がするからかもしれない。でもそんな葛藤が一時でも消え去るのが、アイドルのパフォーマンスを見ているときだったりもするんだよな。だから今は、このでっかい感情と、自分の人生の、きっとどこかにあるはずの落としどころを見つけるしかないのだろう。わたしのまともはたぶんこっちだから。
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