十歳のころから、わたしは分裂しはじめていた。
休み時間になったら、浅葱色の階段を駆け上って、六年生の教室の扉に貼ってあるクラス新聞を読む。クラス新聞はその教室にいるだれかによって、きまぐれに発行される手書きの新聞。合唱コンクールの結果とか、クラスで人気の食べ物ランキングとか、消しゴムでこすりすぎてつやつやになった四コマ漫画とかが載っている。たまにシロツメクサの押し花も貼ってあって、泥のついた根がセロハンテープのなかで丸くなっている。そのなかに、リヴリーアイランドという文字を見つけて、わたしは箱庭でキャラクターを飼育するそのネットゲームをはじめた。かわいいいきものを飼いたい、という気持ちがあったから、わたしの身体はインターネットの海にとぷんと溶けた。
人間のようで人間ではない存在は、わたしと世界をやさしく結えていた。伸びた爪の裏側をじっと見つめたときの、静かに育つ薄い膜が爪と地肌を繋いでくれているように。リヴリーという錬金術でうまれたやわらかい膜、剥いたりんごの皮のようにくるくるとした耳、眠るときにその耳を邪魔そうに放るところ、虫を食べ宝石を排泄するその生態が本当に愛おしかった。
ゲーム内にもチャット機能があったけれど、そこを抜け出して、個人が外部で運営している掲示板にみんなは集った。イラストを交換したり、こだわってレイアウトをしたアイランドの写真を投稿したり、だらだらとおしゃべりをしたり。放課後のわたしは、グラウンドや公園のベンチ、アパートの駐車場ではなく、この掲示板にいつもいた。雨の日も、よく晴れた日も、曇り空の日も、デスクチェアのうえにお山座りをして、熱を放ちながら青く光る画面を見つめていた。
その掲示板では常連になると、管理人から手動でオリジナルのアイコンが与えられて、みんなはそれが欲しい。わたしも欲しかった。毎日毎日書き込みをして、ハンドルネームのとなりに自分だけのアイコンが現れたときは、自分というちいさな惑星がサーチライトで照らされたようでうれしかった。
《びわちゃんときょうだいになりたいです》
《うん》
交流が盛んになるにつれて、リヴリー同士をきょうだいにすることが流行りだした。ゲーム内にそのようなシステムがあるわけではなく、そのようにいようね、という人と人との約束だった。インターネット初心者だったわたしは、飼い主とリヴリーに全く同じ名前をつけていた。結果、びわがびわを飼育している、という状況になった。わたしとリヴリーのシルエットはだんだんと重なり合い膠着して、びわになりたいと思うよりもずっと前からびわになっていた。
わたしたちは擬似的な家族として過ごしていた。年賀状のやりとりもした。リヴリーの世界ではなく、最寄りの郵便局からバレンタインギフトを差し出したときは、いつもネット上でやりとりをしているあの子が、この地球上に存在していることがわかって不思議だった。モンスターボールやピカチュウなどのポケモンの型にチョコレートを流し込んだ、手づくりチョコレートを送ってしまって、きっとびっくりしただろうなと後悔しながらも、教室の外にも世界があるみたいで、そこにも友達がいるんだという感覚が、どれだけわたしを支えてくれて、世界を見つめ続ける勇気をくれたのかわからない。
ある日《世界最後の日にはなにをする?》という質問が掲示板に書き込まれた。こわいから考えたくない、美味しいものをたくさん食べる、全財産を使い果たす、などの回答が続くなか《この掲示板のみんなとオフ会をする!》という書き込みがあらわれた。瞬間、光の粒が身体の内外をさらさらと流れていって、透明で無邪気な親密さに、一瞬で救われた気持ちになったことを覚えている。
《それすっごくいい!》
《絶対約束だよ!》
と賛同のコメントがどんどん続いてゆく。わたしも《オフ会がしたい!》と書き込む。世界が終わる日にしたいことなんてきっと、人生で一番叶えたい夢だ。だけど、世界の終わりなんていう、抱えきれないほど大きなきっかけがないと、みんなに会うことは難しいって、みんなわかっていたのかもしれない。
それでも、オフ会の約束をしてから小惑星が地球にぶつかる夢を見ることが少なくなった。それは幼いわたしの悩みだった。たまたま見たバラエティ番組で、2036年に小惑星が地球に衝突する、と知ったとき、心臓がばくばくして止まらなかった。なにもかもみんな壊れて消えてしまうんだと思うと、心底怖くなって眠れなくなった。本当なのかなって、確かめたくなって、Wikipediaで2036年をクリックすると、小惑星が地球に衝突、と書いてあって、指先に真っ暗闇が落ちてきた。2037年から先のページをクリックすることができなかった。
翌日、教室内では先生もクラスメイトもみな落ち着いた顔で、どうして怖くないんだろう、ふつうでいられるんだろう。そんなことを思っていた。あのバラエティ番組でもそうだ。天体が地表を灼き尽くす映像がスタジオで流れたときは、みんな呆気にとられた顔をしていたのに、すぐに別の話題に切り替わった。クラスメイトも、スタジオにいた人たちも、すでにオフ会の約束があったのかもしれなかった。
そして、リヴリーにも死がプログラミングされていた。餌やりを怠ったり、モンスターと戦い傷を負うと死んで、墓が立った。たまごっちも死んで、墓が立った。ポケモンは死なない。大好きだった犬のゲームの犬も死なない。ただ、リヴリーはサービス終了を迎えた。世界の終わりと呼んでもよかったような気がした。みんなに会いたかったけれど、そのときには掲示板も失われていた。わたしは十歳の頃から、サービスが終了するまで、一匹のリヴリーを飼育し続けた。十四年ほどの月日が経っていた。人間にたとえると中学二年生だった。数年前、リヴリーは少しかたちを変えてサービス再開したけれど、あの子に会うことはできなかった。
サービスが終了するその日は、不思議と穏やかな心持ちだった。あの子が暮らす箱庭から帰らないといけない寂しさの中に、安堵がじゅわじゅわにじみ出て、冷水と温水が混じり合う、体温と同じあたたかさの水で全身満たされているようだった。この先、なにが起こるともわからない。インターネットに接続できない日々や環境に身を置くことだってきっとあって、だからその日は、自分の手であの子を死なせてしまう日がカレンダーから消失する日でもあった。ただ、あの頃の自分が一心に注いできた愛情を思うと今でも涙が止まらなくなる。もう二度と会うことができないということが、ぜんぜんわからない。データは軽いとか、儚いとか、本物じゃないなんてぜんぜん思えない。この手で撫でたことは一度だってなくても、あの子が与えてくれたすべてのやさしさが島になって、その地にすくすくと根を張る樹木になって、丸くてつやつやと硬い果実になって、わたしの心臓にうずまっている。わたしはいつでもそこにアクセスすることができる。
もしも、地球に彗星が衝突するその日は、目に映るすべてが氷で覆われるその日は、太陽が地球をのみ込んでしまうその日は、街を歩く。見知らぬだれかとすれ違うように、わたしは今でもみんなと、あの子と再会できるような気がしている。