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不寛容さが少しでも和らいだ世界に生きてほしい。中橋健一が語る治癒とギャラリー

KEN NAKAHASHIが10周年。自らの病、作家との別れ、回復までの道

新宿3丁目と2丁目の間の並木道沿いに立つ、細長い雑居ビル。その急な階段を5階まで上がった先に、アートギャラリー「KEN NAKAHASHI」はあります。新宿御苑を望む、大きな窓。自然光に包まれた、決して広くはないそのスペースには、けれど、都会の喧騒のなかにぽつんと空いた静寂のような、自分や世界に向き合わせてくれる時間が流れています。

2014年に前身ギャラリー「matchbaco」としてスタート。2016年から現在の名前となったこのスペースを運営するのが、中橋健一さんです。幼少期には陶芸の世界に没頭。一度は金融の世界で働くものの、大病を機にふたたび芸術の道に転じた中橋さんにとって、ギャラリーとは治癒の場であり、アーティストとともに生き方を考える空間でもあるようです。

ギャラリー開始から10年目となる節目のタイミングで、自らのインタビューを一緒につくってくれませんか、と相談をもらいました。「ふと手にとって開く手帳の1ページのようななにか、どこかの誰かの背中をそっと押す勇気になり得るかもしれないなにかを残しておきたい。ふつふつとした想いを抱いています」というメールと共に……。そう語る中橋さん自身のこと、そしてこの特別な親密さを感じさせるスペースの背後にあるものについて尋ねました。

自分の世界を封じた中学時代

―以前から鑑賞者としてKEN NAKAHASHIを訪れるなかで、この場所には不思議な時間が流れているなと感じてきました。キラキラしたギャラリーは多いけれど、ここにはそうした華やかさとは違う、静かに自分と向き合える空気があると感じたんです。そこであるときそれを中橋さんに伝えたら、「ギャラリーを開くとき、自己治癒やケアのことを考えていた」とおっしゃっていて。今日はそんな背景について伺えたらと思ってきました。

中橋:ありがとうございます。いまのこのギャラリーのあり方には、きっと自分の生い立ちやこれまでの経験も関係しているのかなと思います。

僕は能登半島の穴水ってところで生まれたのですが、小さい頃にかなり本格的に陶芸の道を志していたんです。地元の陶芸家の工房に毎日通っていて、小学校4年のときには信用金庫の空きスペースに作品を並べて、家に取材が来たりもしました。中学時代、親には高校には行かずに金沢の「北陶」という工房に入ると言っていて。でも、突然陶芸を止めるんですね。

それはなぜかと言うと、僕が中学2年のとき、いとこが結婚したんです。能登に七尾高校という進学校があるのですが、そこの野球部のキャプテンと結婚して、親戚中が「美男美女が結婚した」と盛り上がっていました。いっぽうの僕は当時からゲイで、そういう世界にうまく馴染めずに、芸術が癒しというか、自分の世界だった。だけど、「普通」とされるその結婚式に行って、いままで広く感じていた自分の世界が小さく感じてしまったんです。

不寛容さが少しでも和らいだ世界に生きてほしい。中橋健一が語る治癒とギャラリー

中橋健一さん

―大切にしていたものが、崩れてしまった?

中橋:圧倒的な劣等感があったんです。僕は自分のことをなかなかオープンにできず、でも、陶芸を頑張ったり本を読んだりすることで、いつか魂が望む生き方ができると夢見ていました。でも、「普通の男女の結婚……やっぱり世の中はそういうものを求めているのか」みたいになって。そこから「自分だって七尾高校に入れるぞ」と方向転換して、陶芸を諦め、猛勉強を始めたんですね。

結局、希望の高校に入ったのですが、理系に力を入れていた学校だったので授業に興味がなく、高校ではもっぱら個人的に語学を勉強していました。大学は東京の仏文科に進学。主に子供の言語障害について、その社会的要因や対応を日仏比較していました。同時に、在学中は勉強も兼ねてヨーロッパに行きまくっていましたね。そうこうするうち、あっという間に就職の時期になり、東京で生きていくため、よく考えもせず金融機関に入りました。

―どんなお仕事ですか?

中橋:不動産業者に土地の仕入れ代金や、建築資金や、運転資金を融資する仕事ですね。リーマン・ショックも経験しましたし、当時は自分の力ではどうしようもできない大きなシステムのなかで働いている感じでした。

その頃も、休みがあると海外に行って芸術に触れていました。やっぱり異なる時代のものと対話するのは喜びだったんです。だけど、そうして8年間が過ぎた頃、東日本大震災が起きて。さらに急激に体調が悪くなって、白血病が発覚しました。その闘病生活のなかで、中学2年のときに方向転換して抑えこんでいたものが、ギギギ……と直ってきたんです。

闘病生活を経て直った人生の軌道

―治療という時間のなかで、芸術への思いが蘇ってきたんですか?

中橋:そうですね。2年ほど病院に通って抗がん剤治療を続けたのですが、薬を3〜4時間くらいかけて体に入れたあと、高熱が出てそのままよく病院に泊まりました。苦しくてうなされているんですけど、そうしたとき、意識だけは浮遊していくんです。すると、子どもの頃に能登の山の方で静かに陶芸に向き合っていたときの無の境地、あの場所へ戻っていく感じになって。それで、自分にとって芸術はやはり重要なものなんだってわかったんです。

―大変な状況になって、自分のなかにあるものがクリアになってきたんですね。

中橋:でも、当時はまだ何をやればいいかはわからなくて。とりあえず会社の社長に引き留められながらも、泣きながら辞めさせてくださいと話して、辞めた後は、しばらくぼーっと美術館に行ったり、喫茶店で読書をしたりしていました。体がまだ弱っていてふにゃふにゃのスポンジ状態だったので、喫茶店でそっと放置してくれるのが一番の癒やしだったんです。

そんなあるとき、ある喫茶店の人が始めたギャラリー付きのカフェを手伝うようになったのですが、そこで装幀家の平野甲賀さん・公子さんご夫妻と知り合って。2人が運営されていた神保町のスタジオイワトという小劇場を借り、5日間限定で開催したのが、のちにギャラリー名にもした「マッチ箱」というイベントでした。

その頃を機に、自分でギャラリーを始めるために物件を探し出して、この場所を契約したのが2013年12月です。物件探しは難航したのですが、相談した占い師さんの一言目が「自然に包まれた風や光のある場所にしなさい」で。その後、たまたま見つけたこの部屋を内見した際、窓の外に木の光景がブワッと広がっているのを見て、ここだと決めました。

―この場所は芸術とふたたび向き合うための場所という感じだったのですか?

中橋:自分の癒しというのが大きかったです。じつは当初は、お茶やコーヒーも出して、本も読めるブックカフェギャラリーのようなコンセプトで始めようとしたんです。自分が喫茶店で癒されたから、夜遅くまでやっていて、新宿のこのエリアのコミュニティの人たちが気軽に訪れられる場所を作りたくて。その後、ギャラリー機能に特化したのですが、最初はギャラリービジネスやアートマーケットを意識した場所ではなかったんですね。

―商いのための場所ではないことも、この独特の空気につながっているのかもしれませんね。ところで少し戻るのですが、さきほど闘病中に、中学時代に無意識に抑え込んだものが「直った」と話されていたのが印象的で。この「直る」とはどういう感覚ですか?

中橋:自分の「こう生きたい」という意志って、自分だけで決めたものじゃないんだと思ったんです。中学時代の僕は、保守的な土地で自分のセクシュアリティを隠しながら、「普通」の社会での生き方を見いだそうとしたんだと思うんですね。でも、そのことで本来の自分の願望は抑え付けられて、ずっと精神的に傷を負っていっていたんだと思う。それが病気になったことで、本来なりたい姿に向かっていいんだよって思えるようになったんです。

自分がそう思えるようになると、人間関係も変わりました。両親も、もう好きなことだけやればいいよと言ってくれ、平野さんたちをはじめ手助けしてくれる人も現れた。だから、まずは自分が切に「こうなりたい」と思うこと。そうした人生の目的地の設定がとても大事で、その舵取りや向かう方向によって、日々の意識は変わってくるんだと思います。

僕の場合、セクシュアリティだけではなく、小さい頃から目の病気やアトピーもあり、劣等感が強かった。それが、無意識に間違った方向へと舵を歪めていたのだと思います。その舵が何年もかかって、ようやく自分の本来行きたかった方向に直った感じがしたんです。

互いの世界を大切に、なりたいものを一緒に目指す

―中橋さんは、一緒に仕事をするアーティストについても、生き方の部分を大事にしている作り手が多いそうですね。

中橋:僕自身、自分がどうありたいかということのためにここを始めたし、そういうことがアーティストにとってもすごく大切なことだと思うんですね。そうしたそれぞれの人生のあり方をお互いに守りつつ、肯定し合い、なりたいものを一緒に目指す。それがもっとも重要な課題で、お金が最初じゃないんですよ。お金を考えていないわけではなくて、理想の自分のイメージを大切にすることが、結果的にお金にもつながっていると思います。

美大を出て、美術館やマーケットで評価されて、アートの世界でエリート的に階段を登っていくアーティストでなくても、独学で表現を始めた人や、ライフステージの変化で芸術を諦めたり再開したりした人のなかにも、比類のない芸術表現を行う人はいる。そうした価値観を共有できることが大切で、ここで一緒に仕事をしている人たちは、自分が見つけたというより、お互いに見つけたという感じで出会いました。

―「なりたいものを一緒に目指す」うえで、中橋さんはご自身の役割をどんな風に捉えていますか?

中橋:毎回、いろんなかたちがありますけど、アーティストのなかには「これを本当にやっていいのかな」という思いを抱いている人もいて。新しい可能性に向かっていくことは、一人だと勇気がいると思うんです。そのとき一人でも応援してくれる人や、それを肯定してくれる人がいると、良いと思うんです。この場所はそういう存在でありたいんですね。

まだ現実化されていないけど、自分のなかにすでにあることを微かに感じている欲求だったり方向性だったり。それをサポートしたい気持ちがあって。違う言い方をすると、すでにわかっている価値より、未知のものを一緒に見ることに携わりたいんです。

これはお客さんの体験も、そうあってほしいですね。お客さんにはいろんな人がいてもちろんいいんですけど、ただの傍観者や消費者というより、アーティストの新しい可能性や未知の方向性を一緒に喜んだり、歩みを共にしてくれたりする人が増えるといいなと思います。

―自分を見せて良いという意味では安心感もあるけれど、決して弛緩ではなくて、緊張感もある関係性を築いてきたのですね。

中橋:そうですね。アーティストとの関係は、すごい緊張感があります。お互いにあまり侵し合わないというか、個人の領域と、その間の結界を大切にする。結界は「世界を結ぶ」と書きますが、それぞれが自身の内省する世界に入ることで、違う世界と結ばれるってことだと思うんですね。そうした関係や空気を、一緒に作り上げていきたいです。

別の次元とつながる「よすが」としてのギャラリー

―たしかにこの空間では、作品があまり記号的に見えないというか、むしろそれを作った人の気配とか、作品同士のつながりも有機的に感じられるような気がします。

中橋:それは嬉しい感想で。ドイツには「総合芸術」(Gesamtkunstwerk)という考え方があるんですね。例えばワーグナーのオペラでも、オーケストラの各楽器の奏者、楽器、室内装飾から建築まで、すべてを一つの人格のように考える。僕は、所属作家のエリック・スワーズが自分の展示で実践していると話してくれたこの考え方が好きで、このギャラリー空間も部屋全体をひとつの人格として毎回表現しようとしています。

だから、なぜこの作品がこの壁にかけられているのか、なぜある作品は他と離れているのかなど、全部意味がある。その全体で何か音楽のようなものを感じてもらえたら良いなと、いつも思っています。

―ほかに、ギャラリーを運営するうえで意識していることはあります?

中橋:以前、「KEN NAKAHASHIは、流れている時間が違う」と言われて、それについて考えていたんですけど、思い出したのが、ドリス・サルセドというコロンビアのアーティストがある場所で引用していた、パウル・ツェランというユダヤ系の詩人の言葉でした。

サルセドは、テート・モダンのタービン・ホールの床に亀裂を走らせた《Shibboleth》(2007)という作品でも知られる、政治的な暴力を主題にしてきた作家ですが、2014年にヒロシマ賞を受賞した際、自作の意図をツェランの以下の言葉で説明しているんです。

不寛容さが少しでも和らいだ世界に生きてほしい。中橋健一が語る治癒とギャラリー

中橋さんが手帳に書き写した、パウル・ツェランの言葉。広島市現代美術館で開催された『第9回ヒロシマ賞受賞記念 ドリス・サルセド展』のカタログに収録されたドリス・サルセドによる文章「沈黙の祈り」より(撮影:杉原環樹)

中橋:つまり、彼女が作るインスタレーションは、不寛容を鎮めるために、ここにはない存在や遠く離れた場所、自分とは違う存在とつながるうえでの「よすが」なんだ、と。これを読んで、自分の芸術観にとってもそうした感覚が大切なんだと気づいたんです。

僕は、宇宙的な感覚で言うと、「時間」って存在しないと思っていて。地球では人間の都合で直線的な「時間」があると考えているけど、本当はどんな時代のものとも対話ができるんじゃないか。小さい頃や学生時代、芸術に僕が感じた救いの感覚はそういうものだったと思います。そんな風に、なるべく時間を俯瞰的に考えて、過去や未来とつながりたいという思いから、このスペースに特殊な時間性を感じてもらったのかなと思うんです。

不寛容さが少しでも和らいだ世界に生きてほしい。中橋健一が語る治癒とギャラリー

愛用している手帳には、心にとまった詩を書き留めることも

―芸術的な体験を通して、ここでない場所や時間、ここにはいない存在、あるいは自分を超えた存在とつながりうるという感覚はよくわかります。中橋さんのそうした思考が空間に滲み出しているのかもしれないですね。

中橋:目の前の作品からそうした広がりが生まれるから、この部屋は物理的に少し狭くても良いんだと感じます。だけど、何重にも考えて、空間を構築しておく。べつに、すべてのお客さんにその背景を気づいてほしいわけではないんですが、感じる人は感じる場所にしておきたくて。

そうした体験って、案外、自分というものが「無」になっていく体験だと思うんです。自分の感覚器官を通じて、自分とは違うものが体に入ってくるみたいな。自然のなかで、自分をその全体の一部だと感じることって、安心感があるじゃないですか。ギャラリーを始めるときに自然と近い場所を求めたのも、その感覚が大事だったからかなと思います。

大きな喪失と、何気ない日常のケア

―「ここにはいない存在」とのつながりというお話がありましたが、中橋さんは2017年2月に中国出身の写真家であるレン・ハン(任航)さん、そして2019年3月にはアーティストの佐藤雅晴さんと、深い親交のあった2人の所属作家を相次いで亡くされました。

中橋:2人との別れは、ギャラリーを始めた後の自分の新たな人生における大きな喪失で、転機でした。結果、佐藤さんが亡くなったあと、僕は心の病を患ってしまい、7か月間のあいだ精神療養を受けることになりました。ただ、僕にとって救いだったのは、定期的なアーティストたちとの活動があったこと。それがあることで能動的に病の状態から抜け出そうと考えることができて、薬も減らしていきました。

なかでも快方に向かった大きなきっかけが、個展に向けて、アーティストの原田裕規さんのパフォーマンス撮影に立ち会ったことです。そのパフォーマンスは、原田さんがこの部屋の窓際で24時間、市井の人たちが撮った写真を一枚一枚ひたすら見続けるというもの。メモリーカードを抜いて映像を確認する作業を交代でしていて、僕はたまに家に帰るんですけど、心配で戻ってきちゃうんです。

睡魔と戦い、原田さんと「メンタルマラソン」と呼んでいたその大変な作業を乗り切ったときには、新しいドアが開いた感じがしましたね。匿名の人々の写真を見続けていたこともあり、24時間がある人の一生の時間を凝縮したようにも感じて、良い経験でした。一方でその後もやはり、2人が亡くなった2〜3月は腰が重かったのですが、昨年からは体調がさらに良くなりました。

不寛容さが少しでも和らいだ世界に生きてほしい。中橋健一が語る治癒とギャラリー

原田裕規《One Million Seeings》(2019年)© Yuki Harada

―体調が回復した理由は何かあったんですか?

中橋:去年の5月ぐらいから断酒をしたんです。それは大きなエンジンでした。煙草も吸わなくなり、直接的に体をケアし始めたら、自然と心も良くなっていきました。その経験から、日々の暮らしの質を少しずつでも上げていくケアを積み上げると、何かが劇的に変わるのだと感じましたね。それはいまのギャラリーのあり方に良い影響を与えていると思います。

―中橋さんの心身の状態と、ギャラリーの状態がつながっているんですね。

中橋:生き物的ですよね。それで言うと、僕、毎日床を磨くんです。窓も、雨の後はかなり本格的に磨きます。空間に意識があると思っているので、隅々までケアするんです。

―たしかにすごい綺麗ですよね。そうした細部も、観客の目に無意識に入っているのかもしれません。

中橋:大きなことの改善は、みなさん大体やるものだと思うんです。じゃあどこに差が生まれるかと言うと、すごい微妙で微細な部分の変化なんじゃないか。このビルはピカピカのゴージャスな建物でもないので、そういう細かいところはとても大切にしていますね。

「ハレ」と「ケ」で言えばケの方、平凡な日常の方を特別な気持ちで愛してあげるというのかな。そうした小さな波がいっぱい集まると、気付いたら人生の大きな波になっていると思うんです。ギャラリーも同じで、お祭りみたいな一時的で派手なことに熱中すると、反動やしっぺ返しがある。そうではなくて、目の前の作品を残すために信頼できる人に文章を書いてもらったりするような、一見地味な活動が、長い目では大切だと思っています。

先の世代の人が、不寛容さが少しでも和らいだ世界に生きてほしい

―社会のなかで聴こえづらい声を聴いたり、見えないものを見ようとしたり、自分のなかの隠れた声を聴いたりするのは小さいことかもしれないけど、その小さいものの重要さを今日は感じました。

中橋:大きなことを一気に成し遂げるのは難しいけど、その目標のために小さいことを分割して積み重ねることはできますよね。さらに、それがほかの誰かにも広がっていけば、自分のありたい世界にまた近づける。このギャラリーは、アーティストと僕だけでなく、お客さんも含めてそうした何かを共有できる場所であってほしいですね。

そのとき大事なのは、そこで共有する目標の舵取り、方向性で、自分はそれが優しいものであってほしいし、弱いものや障害があるものをケアするものであってほしい。弱い人たちを抑えるものではなくて、そういう人に力を与えるものであってほしいと思います。

それは何のためかといえば、もちろん自分のためでもあるけど、過去にそれを成し遂げられなかった人や、未来を生きる人のためでもあって。先の世代の人が、不寛容さが少しでも和らいだ世界に生きてほしい。それがこのギャラリー活動につながっている気がします。

―中橋さんの場合、それがただの理念ではなくて、ご自身の苦しさや辛い経験に紐づいている点も大切ですね。

中橋:本当、相当に自分の痛みも味わい尽くしてきたんですよ。もしかしたら、何かのときの判断を間違っていたら、いまここにいないかもしれない。でも、それを支えてくれたのは一緒に活動するアーティストや、関係者の人たちで。だから、本当に感謝していますね。

だけど、アーティストのなかにはどうしようもなく苦しんでしまう人もいて、そういう人たちのケアを世の中みんなで考える必要があると思うんです。ある作家がどうやったら安心して生きやすく活動できるのか? どこかに負荷がないか? 誰かを傷付けたりはしていないか? そうしたことを、これはまず自分に向けて言うのですが、ほかのギャラリーをやられている方たちも、みなさん少し見直す機会があるといいのかなと思います。

……あと、やっぱり最後にレン・ハンと佐藤さんについて何か残しておきたくて……。

不寛容さが少しでも和らいだ世界に生きてほしい。中橋健一が語る治癒とギャラリー

佐藤雅晴《階段》(2018年)© 佐藤雅晴

―ぜひ話してください。

中橋:2人は死ぬ直前まで、本当に自らの表現を一貫してやり切っていました。だから自分も一生懸命になって、まるで部活の大親友みたいな感じで一緒に活動していたので、なおさら彼らの死が自分の半分を失ったみたいでショックだったんだと思います。

だけど、死の直後は「無い」ことばかりに意識が向いていたけど、だんだん「ある」ことがわかってきたんですよ。2人とも肉体は消えているけど、その芸術というものは消えないし、むしろ以前よりずっとつながっている気がして。いまは向こうの世界に2人も味方がいてくれて最強じゃんって思うようになって、悲しくなくなりました。それに、この大きな広がりのなかで、彼らの芸術性は絶対に消えないもの。だとしたら自分がしっかり頑張ってそれを伝えていかないといけないと思って、力が出てきたんです。

自分はこれまで、無いことや不寛容にただ悲しむのではなくて、なるべく「なぜそれが悲しかったんだろう」と理解しようとして、自分をケアしてきたんだと思っています。だからいろんなことに弱気になってしまう人もいると思うんですけど、その絶望をケアすることから得られるものや、気付けることもあるよ、と言いたくて。自分がもっと強くて優しい存在になって、そうした契機を作り出す活動をこれからもしていきたいです。

中橋健一

KEN NAKAHASHIオーナー。石川県出身、1982年生まれ。青山学院大学文学部フランス文学科卒業。金融機関勤務を経て、2014年3月にギャラリストとして東京・新宿に「matchbaco(マッチバコ)」を開廊。16年、現在のKEN NAKAHASHIに改称。(撮影:任航)

Website

森栄喜『ネズミたちの寝言|We Squeak』
場所:KEN NAKAHASHI
会期:2023年7月28日(金)〜9月2日(土)
森栄喜「ネズミたちの寝言|We Squeak」│KEN NAKAHASHI

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