せっかく日記を再開する日なので、早起きで始めたかった。でもぐっすり眠って9時ごろに起床。作業するにも中途半端な時間。でもたくさん寝られて良かった。しめじと鶏肉とピーマンをどっさり炒めて、大盛りの白ごはん。とりあえずラジオをつける。適当なチャンネル。食べながら聴いていたら、「Fémina」というグループに出会う。ゆったりヒップホップ、そしてラテンが合わさった唯一無二の音楽、とラジオで話してた。アルゼンチンの方たちらしい。朝から良い出会い。結果、素敵な一日の始まり。
昼頃、職場のシネマ・チュプキ・タバタへ出勤。今日は猫の日だ〜と考えて、映画館のある商店街を歩いていたら目の前に猫が。ふわふわ。猫日和だ。でも、首輪をしていた。通り過ぎてから心配になる。心配になるのに、引き返して探さない自分も嫌だった。自分が嫌になることしか考えず、猫のことを本当に心配していないのではないかと、また自分が嫌になる(後日、猫を同じ場所でまた見かけることができた。そういう猫なのだろう。すぐに目の前からいなくなってしまったけれど、元気そうで安心)。
出勤。接客や映写やメール返信。ほかにも今日は、『春をかさねて』/『あなたの瞳に話せたら』(佐藤そのみ監督)の音声ガイドの台本修正を行う。作業は気分転換に喫茶店で。レジで注文がくるのを待った後、コーヒーの番号券とレシートを間違えて渡してしまった。「すみません!」「大丈夫ですよ〜」と、店員さんと何気ないやりとり。そのおかげでなんだか美味しいコーヒー。こういうことこそ日記に書きたい。こういう人間素敵瞬間が日々起こっているはず。
音声ガイド(Audio Description)とは、簡単に言うと、目のみえない人も映画をより体験できるように、視覚情報を言葉に翻訳して伝える、というもの。その制作過程では何度も映画を観る。『春をかさねて』『あなたの瞳に話せたら』をみつめていると、喫茶店だというのに心がじんわりとしてくる。目もうるうるする。「好きに生きよう」と、主人公が自分の言葉で伝えてくれること。大切な人へ「世界で一番、愛しています」と伝えること。それを映画でしてくれたこと。こんなことが映画でできるんだ、と嬉しくなる。映画自体をもっと好きになれるような、大切な二本。そんな気持ちに包まれながら、幸せな仕事時間。
劇場に戻ったら、隣の業務スーパーで駐輪場の自転車が倒れた。子どもが後ろのチャイルドシートに乗っていて、前のカゴに買い物袋を乗せていたお母さんも大変。すぐに駆け寄る田端の皆さん。皆んなで子どもと自転車を救出。怪我はしてなかった。これまた人間素敵瞬間だ。
そして今日はトークが二本。中尾太一さんの詩集が原作の『ルート29』(森井勇佑監督)では、言葉を映像にすることについて。『ルックバック』(押山清高監督)では前支配人の和田浩章さんによる音声ガイドについて。詩と映画。音声ガイドとリズム。言葉について、じっくり考えられた。トークの司会をさせてもらえるときは好きなことを聴ける。映画を観た後やイベントの後、お客さんの反応を直に受けられる。映画と一緒に居て、届いていく様をみることができる。「映画館ほど素敵な商売はない」。やっぱりそう思う。
チュプキではお客さんを駅までお迎え・お送りしたりもする。この日も、目のみえない常連さんと映画館から駅まで歩いた。その方はいつもご飯の話。毎スケジュールのほぼ全作を観てくれるにもかかわらず、映画の話よりもご飯の話。今朝はナポリタンだったらしい。今度チュプキに来る時は、商店街にある町中華「八福」か「美味しい餃子」か、劇場隣の焼き鳥屋「ミヤコ」かなぁと楽しみにしてくれた。夜も別の常連さんと駅まで歩く。その方は最近歩くのが大変で、風や段差があると危険な状態になってしまったらしい。最終回も終わり「時間はありますので!」と言って、一緒にゆっくり歩いた。その中で、4月にチュプキを辞める話もした。しんみり。驚いて残念に思ってくださることが、それでも嬉しい。
劇場に戻って締め作業。この時間は一日の中でも特に好きな時間。いつもロビーに音楽をかけてレジ締めしたり掃除したりする。この日は、和田さんのトークで出た「志人(しびっと)」を久しぶりに聴いた。『Zymolytic Human ~発酵人間~』。言葉がどばっと耳に流れ込むうちに、一生とか時間とか自分とかが溶けていく。掃除が捗り、綺麗になる空間。仕事も終わり。
退勤。オールナイト上映へ行ってしまった。「しまった」と書くのは色々思うところもあるから。でもどうしても、観なければと。ニナ・メンケスの3本立て。ここ最近、「赤いきつね」のCMと『Black Box Diaries』のことが頭を巡っている。SNSでは、正しいのはどっちだ、価値の高い低いはどっちだ、という方向に言葉が溢れていく。対話ではなく叩き合いのために言葉が使われている。本質からは遠ざかってそのことを考えてしまう最近だったが、改めて、映像が人を傷つけてしまうことをみつめる夜から朝。『クイーン・オブ・ダイヤモンド』で延々と続くカジノの騒音の空虚さに、夜中にこの劇場で映画を観ている自分の欲望を重ねてしまう。『ブレインウオッシュ セックス-カメラ-パワー』で映画における視覚表現に表れている性差別とその影響≒「洗脳」の構造を学びながらも、引用されるさまざまな映画に情けなくも観惚れてしまう。「〜しまう」ということをたくさん感じていた。自己嫌悪。人を傷つけない人でありたいし、傷つけてしまったとしてもその人を想えるようでありたい。
映画を観ている時間中、人はスクリーンをみつめることしかできない。応援上映やスマホ操作で物語のパターンが変わるなどの観客参加型のような形態でも、映画の本質がみつめることであることは変わらないのだとは感じる。その「ただみつめる」という姿勢はとっても尊いもの。その姿勢が、叩き合いでなく対話の関わりを生むのではないだろうか。自分には、映画を観たらたいていの頭のグルグルは解決するようなジンクスがある。映画を観たら体調が良くなる。身体に響いて体調を崩す映画もあるのだけれど、それもそれで崩すべき体調を崩せるということなのかと思う。だから、悩んだらとりあえず映画を観てきた。映画には「洗脳」の側面があることを自覚しながらも、泣き笑いも自己嫌悪も通して、いつの間にか“あの人”や自分を感じさせてくれるものが映画だと思いたい。これからも映画を観てそう信じられるように。映画館がそんな、人と人を結ぶ空間でありますように。
ニナ・メンケスの後、まだ暗い5時ごろ。先日観劇した『女性映画監督第一号』(劇団印象)では、男性優位主義から大戦下での帝国主義へ、搾取や加害の構造をパラレルに描き出していた。だからか映画の後は戦争や民族浄化のことを考えていた。何か言葉を受け取りたくて、思いつく日本語の音楽を聴きながらちょっと散歩。“Beginners”(曽我部恵一)。ウクライナと“ここ”とを歌う曲。物理的距離のそうでもない遠さと、心理的距離のどうしようもない遠さ。人の根っこにある薄っぺらい欲望。もしくは愛と平和、と呼びたいもの。土曜の夜兼日曜の朝。始発を過ぎたまちには、さっきまで飲んでたであろう若者たちのグループがまだまだ盛り上がってる。人が人を殺してしまう一つの地球の中で、目の前のこの空気も愛おしみたい。それから、やけのはらカバーの“自己嫌悪”(キミドリ)。今日は朝から日本語の音楽ばかりだ。<社会の前に我に返れ>との歌詞。歩道橋を上ってみる。かなり景色が変わって、不思議なまちになる。びゅんびゅん通り過ぎる車しかみえない真っ暗なまち。暗い朝だから余計に車のライトだけが目立って、人の気配がないみたい。
歩道橋を降りて地に足をつける。最後は『Memories』(尾崎友直)。大好きなミニアルバムを聴いた。友直さんの音楽は、たぶんほぼ全てがある誰かに向けて作られたもの。一曲一曲にいろんな人の存在があって、聴く時々のいろんな自分が重なる。だから毎回新鮮。今日は“Michika(feat. Reiko Kudo)”がとっても染みた。寒い日に聴く蝉の声、ぶわんぶわんと鳴るギターに乗って、<あなたの名前を呼ぶ人たちとずっと一緒にいてくださいね>、と伝えてくれた。名前や顔を知ってる人、みんな元気でいてほしい。漠然と、でも確かに思えた。人間素敵だ。
朝日が綺麗でありがたい。音楽も聴いて散歩もして、先延ばしにしていたLINEをやっと送った。今の自分にはこの人にLINEを返す資格なんてないのかも、とか思っていたことも、めんどくさいエゴだと思いなおす。何ができたか、何ができるかなんて考えないで人を想いたい。
メッセージを読み返して笑みがこぼれる。かじかむ指先で文字を打つ。言葉が大切に伝わっていますように。元気でありますように。「良かった一日」も終わり。