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同じ日の日記

起き上がれること、もう二度と起き上がれないこと/百瀬文

散らかり続ける部屋と、イスラエル・パレスチナにそれぞれ行ってきた人の報告会

毎月更新される、同じ日の日記。離れていても、出会ったことがなくても、さまざまな場所で暮らしているわたしやあなた。その一人ひとりの個人的な記録をここにのこしていきます。2024年9月は、9月29日(日)の日記を集めました。主に映像の手法を用いて、他者とのコミュニケーションの複層性やその不均衡を扱う百瀬文さんの日記です。

起きたら11時。リビングにはわたしの服が散乱したままになっている。シンクの中には昨日食べた食器が乱雑に重なっていた。基本的に最近うちでは料理はれいじくんか泰地くんが作っていて、洗い物はわたしとしんごの仕事のはずだった。ガザのことを考えるようになってから、わたしの家事能力は著しく低下している。(たまにれいじくんに300円を払って1回分の洗い物をやってもらっている)

前からわかっていたことだが、わたしみたいな人間は、インスタグラムのアプリを消していったん離れる時間を設けた方がいいのだった。現地のジャーナリストたちがあげる凄惨な映像を見ること自体が辛いのではなく、それと友人たちの平穏なほんわかしたポストとの落差に、そしてそういったものに対する感情が、コントロールの効かない他罰的な何かに変わりそうになる瞬間そのものにおそろしさを覚える。布団から起き上がれず、部屋は散らかり続け、わたしは今日も誰かに家事労働をやってもらっている。独りよがりすぎてどうしようもない。わたしの生がこうしてぐずぐずに損なわれていること、それ本当に抑圧者の思う壺だよな、と思ってなんだかだんだん腹が立ってくる。

腹が立ってくるのは少し元気が出てきた証拠でもあって、行くかどうかぎりぎりまで迷っていた日暮里の脱衣所のイベントに行くことにする。3日間のパレスチナに関するイベントで、昨日もわたしは同じ場所のイベントに行って、西洋美術館の抗議アクションに参加した作家たちと一緒に小さな報告会のようなことをしてきた。こじんまりした会だったからとても安心できる空間だったけれど、やはりこのことを話すには毎回何か普段とは違う体力がいる。そんな翌日だったので体力的に迷っていたけれど、今日は同じく西洋美術館のアクションに一緒に参加していた中島りかちゃんが小柳さんという方と西岸地区に行ってきた報告会があるので、重い腰をあげてでも絶対聞かねばと思っていたのだった。

日暮里駅から脱衣所まで歩く。お腹が空いてたので近くのコンビニに寄る。これはボイコット的に大丈夫なんだっけ、とうまく確証が持てないままイクラのおにぎりを買う。

まず小柳さんのプレゼンが始まる。二人の行った場所は地域としてのパレスチナである点では同じだけれども、小柳さんは主にイスラエルに、りかちゃんは主に西岸地区に行っていた。小柳さんはパレスチナ解放について調べるうちに、まずは一度イスラエルに行ってこの目で見てみなければと思ったらしい。小柳さんを案内してくれたガイドはイスラエル在住の日本人で、一緒に車で回った運転手さんはパレスチナ人だったそうだ。運転手さんにこっそり小柳さんがパレスチナに対する連帯を示すメッセージをスマホで見せると、「君に見せたい場所があるから連れてってあげるよ」と言ってくれたという話が印象的だった。

わたしは小柳さんのプレゼンを聞きながら、四方田犬彦の紀行エッセイ『見ることの塩』で以前読んだ内容を思い出していた。パレスチナにルーツを持ちながら、イスラエル人と生活や仕事を共にするイスラエル・アラブ人の問題。国内で二級市民として扱われること。四方田のエッセイの中で、イスラエル・アラブの俳優であるムハンマド・バクリの話が出てくるが、彼は同じくイスラエル・アラブの映画監督であるエリア・スレイマンのことを批判し続けた。そのシニカルなスタイルで高い評価を得たアメリカ帰りの映画監督が、悲哀に満ちたユーモアでパレスチナを描くことが、イスラエル内で多くの困難に立ち向かってきたバクリにとっては「現実のパレスチナ人の苦痛も知らないくせに」と、許せなかったのかもしれないと四方田は分析する。

この人類史を揺るがすような現在進行形の虐殺のもとで「複雑じゃない、簡単だ」という言葉は、パレスチナに起こっていることを伝える際のスローガンのようなものになっていて、実際それはその通りだと思う。虐殺という言葉の響きが持つ切迫性は、あのブルドーザーのようにのっぺりとすべての感情の細部を平坦にしていく。四方田がこの本を2005年に書いたときに、バクリの葛藤を通して描いた「複雑さ」が、今この状況下でどのようなものになっているのか、わたしには想像もつかなかった。

次のりかちゃんのプレゼンは、現在の西岸地区の様子をたくさんの写真とともに伝えるものだった。あの壁が見える風景、瓦礫にまみれた市街地も、散々ストーリーズで見たものと同じはずなのに、その瞬間にシャッターを押したりかちゃんの様々な感情が映り込んでいたのか、そのイメージはまったく違うものに見えた。わたしが全然知らなかったこともあって、たとえば中心都市ラマッラーでは、新しくヒップなアートセンターが作られようとしていたり、カフェで撮られた写真に映る人々もごく普通の若者たちであったり、自分が無意識に一方的な犠牲者像のフィルターを彼らにかけていたことにも気付かされた。かと思えば、次の瞬間に目に飛び込んできたジェニン難民キャンプの写真には、それらとはまったく違う、ままならない日常が映し出されていたりするのだった。

今や西岸地区ですらイスラエルの国旗が至るところに掲げられていて、りかちゃんはそんな中で、自分が訪れた場所が、そのあとでイスラエル軍の襲撃を受けて瓦礫に変わってしまったことを知る。そのときのりかちゃんの心の痛みを、どこまで自分が想像できているのかわからない。わたしがそこにいたとして、自分に帰れる場所があることを、どう受け止めながら帰りの飛行機に乗ることになるのだろうと思う。今、自分が旅行者として訪れることに葛藤があった、それでも行けてよかったと思う、と言ってりかちゃんはプレゼンを終えた。りかちゃんの首には、現地のアクセサリー屋さんで買ったという、小さなスイカの形のネックレスが光っていた。

百瀬文

1988年東京都生まれ。美術家。映像によって映像の構造を再考させる自己言及的な方法論を用いながら、他者とのコミュニケーションの複層性を扱う。近年は映像に映る身体の問題を扱いながら、セクシュアリティやジェンダーへの問いを深めている。主な個展に「百瀬文 口を寄せる」(十和田市現代美術館、2022年)、主なグループ展に「国際芸術祭あいち2022」(愛知芸術文化センター、2022 年)など。主な作品収蔵先に、東京都現代美術館、愛知県美術館などがある。2023年に作品集『百瀬文 口を寄せる Momose Aya: Interpreter』 (美術出版社)、2024年に初のエッセイ集『なめらかな人』 (講談社) を刊行。(撮影:金川晋吾)

Web

『フェミニズムと映像表現』
※遠藤麻衣×百瀬文として参加

会場:東京国立近代美術館2Fギャラリー4
会期:2025年2月11日(火・祝)〜6月15日(日)
休館日:月曜日(ただし2月24日、3月31日、5月5日は開館)、2月25日、5月7日
開館時間:10:00〜17:00(金曜・土曜は10:00〜20:00)
※入館は閉館の30分前まで

フェミニズムと映像表現│東京国立近代美術館

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