選挙が近づくといつも憂鬱。
こんなことを書くと、自分でもなんて情けないんだろうと思うけど。
私はパートナーと今年で7年一緒に暮らしていることになる。大学時代から交際し、同時に実家を出て一緒に暮らし始め、お互いの家族にも挨拶を済ませ、3年目ぐらいにプロポーズされ……もし私たちが男女であったなら、少なくとも交際関係においては、なんてスムーズな運びだったんだろうと思うとなんだか笑えてしまう。
「一緒に生きる」を長くやってみると、同性同士で生きる難しさや壁に当たることが多くなり、結婚ができないということの意味を身をもって体感することになった。
女性と生きる前の私は、選挙に熱心で、婚姻の不平等についての問題にもいつも熱心でいられた。でも今では、それが話題に出されることも怖い。当事者になってしまい、なりすぎたんだと思う。
賛同されることも、否定されることも、それが議題に上がること自体が、なんつ〜か、非常に気まずい。私からなにか言おうにも、胸がつかえて言葉が出ず、怒りと悲しみが出口で絡まり、代わりに涙が出てくる感覚になる。あまりにも、そんな経験を積み過ぎた。
自分ごととして苦しみすぎて、渇望しすぎて、それを望むのももうつらい。見たくない、聞きたくない、何も。こんな状況でプライドなんて持てないよ……え〜ん情けない。
同性婚の話題が出ることはシーンとして間違いなく前進ではあると思うんだけど、選挙が近づくとかならず、それに反対する多くの意見や、国の大反対の様子、あるいは上から目線の「認めてやろう」「許してやろうよ」といった賛成意見もひとつのポイントとして目にするようになってきたよね。それに伴い飛び込んでくる酷い世間の声から、できるだけ心を守るために距離を置きたくて、その話題はSNSでミュートしている。
権利のために声をあげてくれる知人、友人たちを見るたびに、ありがたいような、申し訳ないような、なんともやりきれない気持ちになる。(私も友の彼女らや、弱い立場におかれた人々の権利や人生のために、声を上げる、既に戦ってきた人をこれ以上矢面に立たせない人間でありたい……他者であるからこそ、当事者でないからこそ声をあげる余裕がある場合も多いはずだから)
同性婚訴訟もあるしさ、今は渦中なので、この都知事選のあとも、そんな状態はずっと続くんだろう。仕方ない。そんな自分を責めたり、擁護したりで日々のやるべきこと以上に生きることが忙しく難しい。
きっといつかこんな日もあったよねと、家族になった彼女と、友達たちと、話題にもならなくなった自分たちについて、笑い合えますように。