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同じ日の日記

二度寝ができた日、自分の体をアスファルトに横たえる/金川晋吾

セルフポートレイト、ダイイン、個人的なさみしさの問題

毎月更新される、同じ日の日記。離れていても、出会ったことがなくても、さまざまな場所で暮らしているわたしやあなた。その一人ひとりの個人的な記録をここにのこしていきます。2024年6月は、6月22日(土)の日記を集めました。写真とともに日記を作品として発表し、百瀬文さん・斎藤玲児さん・森山泰地さんと暮らしている写真家の金川晋吾さんの日記です。

昨晩はベッドに入ったのが2時を過ぎていたけど、7時ごろには目が覚める。土曜が出勤日の玲児くんはもう起きて出かける支度をしている。洗面所でおはようと言う。トイレに行って水を飲んでベッドに戻ってしばらくしたらまた寝れた。最近は二度寝がうまくできることが多い。自分の部屋のブラインドを遮光カーテンに変えたことが功を奏している。眠りが浅い原因がそこにあることは明白だったのに数年間そのままにしていた。

9時半過ぎに起きる。冷凍してあるご飯を卵かけにして食べようかと思うけど、もしかしたらお昼に玲児くんが帰って来てご飯を作ってくれるかもしれないので、今から朝ごはんを食べるのは少し遅い気もする。チョコを少し食べて牛乳を飲む。ももちゃんマンとたいちくんはまだ寝ている。パソコンの前に座るけど気もそぞろというか沈みがち。夜にももちゃんマンの展覧会『十年』のオープニングがあるけど、それまでどうしようかと思う。夜まで家で仕事ができる気はしない。今晩もしかしたら会えるかもしれないと思っていた人からまだ連絡がなくて、やっぱり会えないのだろうと思いながらも心のどこかで期待を捨てきれずにいる。ここ最近自分のなかにあるさみしさの問題が大きくなっている。いや、これはここ最近のことではなくてもうだいぶ前からそうなのかもしれないけれど。

東京都現代美術館の展示がそろそろ終わりそうなのでそれを一日かけて見ることにしようと決めたけど、ひげをそったりシャワー浴びたり、起きてきたももちゃんマンやたいちくんと話をしていたらあっという間にお昼になる。たいちくんがお昼を作ってくれて三人で食べる。玲児くんにメッセンジャーでお昼ご飯をどうするか聞くと今日はそのまま出かけるとのこと。ももちゃんマンはギャラリーに在廊するためにご飯を食べたらそそくさと家を出た。5時から新宿でダイインをするデモがあるのでそれにも行くとのこと。

お昼ご飯の片づけを終えるともう2時半過ぎ。アーティゾン美術館でやってるブランクーシのほうが時間がかからなさそうなのでそっちを見に行くことにする。たいちくんは5時からの新宿のデモまでは家にいるつもりだったみたいだけど、私がブランクーシを見に行くと言ったら「俺も行こうかな」と言った。自分の話をたいちくんに聞いてもらいたかったので「行こう行こう。チケットもあるよ」と言って誘った。たいちくんは10分ぐらいでさっと準備をすませた。たいちくんのそういう身軽さに少し憧れる。駅前のコンビニでビールを買う。湿度が高くて曇り空の天気のせいもあって、昼間から飲みたい気分だった。たいちくんは禁酒中だったので飲まない。電車のなかで自分の話を聞いてもらう。自分のなかにさみしさがあってそれは性愛的なものによってしか埋まらない気がしていて、そのことに少し参っている、ただ、性愛と言っても必ずしも身体的なことだけを言っているわけではなくて、何かたがいを求めるようなそういうやりとりのことなんだけど、なんで性に関することがこんなにも自分のなかで大きな意味をもっているのか、いや、なんでとか言ってもしょうがないのかもしれないけど……みたいなまとまらない話をたいちくんはうん、うんと言って聞いてくれる。たいちくんは人を否定しないし馬鹿にしない。いや、するときもないわけではないと思うけど、するとしたらそれは他人を尊重しないような人や態度に対して。あと、たいちくんは「一般的にはこれが基本」みたいな考え方からかなり自由なほうだと思う。だから、自分のなかでもまだかたちになりきっていない考えや悩みをたいちくんには安心して話せる。聞いてもらいたいという気持ちになる。

ブランクーシはよかった。ブランクーシのことは全然よく知らなかった。ブランクーシは写真をけっこう撮っていて、自分の作品も自分で撮るし、セルフポートレートもたくさん撮っていて、それが見れたのが今の自分にはとてもよかった。自分に対する意識。自分を見ている自分。「変わった人だなあ」とか思ったけど、自分もセルフポートレートを撮っている。ブランクーシを異質な他者としてではなくて、むしろ自分と近しい人みたいに思ってみるとなんだかぐっと元気が出てきた。ブランクーシはある一定の距離をとって対象化した自分をじっと観察しているような冷静な印象で、私の場合は自分のまわりをずっとぐるぐると回り続けているような感じで、そこはだいぶちがう気がしたけど。ブランクーシのセルフポートレートは何点も展示されていて、それを次々と見ているとだんだん愉快になってきた。「自分ももっと写真を撮ろう」と思った。制作のことに意識が向かうことは、今よりも先の時間に意識が向かうことで、そうするとなんだか心が軽くなる。最近、展覧会を見ているときに「この人たち(作品を作った人たち)は個人的なさみしさの問題はクリアしているのだろうか。クリアしているから制作に打ち込めるのか」みたいなことを考えてしまうことがある。今の自分の状態はけっこうやばめなのかもしれない。展示室内でエレナ・トゥタッチコワと会う。話すのはすごいひさしぶり。外に出てから一緒に記念写真を撮る。そんなことをしてたらもう5時半で、新宿に着くともう6時だった。

南口でデモ。赤ん坊が殺されている写真を掲げている人がまず目に入り、さっと目を逸らせてしまう。その人もその写真も自分には直視できない。アスファルトの上に座り込んで、スピーチを聞く。コールの先導者が怒鳴るような大声で「FREE FREE PALESTINE」と叫ぶ。現状に対する強い怒りゆえに、声にも強い怒りがこもるのは当然のことだし、そうやって表現されるべきことだと思う。でも、その大きな怒鳴り声に一瞬身をすくめてしまう。道行く人はこの声をどのようなものとして受け止めるのだろうか、と心配する気持ちが出てくる。騒ぎ立てないことをよしとしてしまう、騒ぎ立てることに対してとっさに抵抗を示してしまう自分の身体がある。でも、本当はそうありたくないし、そうしたくない。自分以外の誰かが不快に感じるかどうかというどうしようもなく漠としたことをみんなが気にして騒ぎ立てないようになっていくのではなくて、何か感じたときには声を上げることができてそれが当たり前になっていってほしい。自分もそうできるようになりたい。

デモに参加しているときには、街の見え方が変わる。普段の自分が、いかに消費するために街にいるかがわかる。次はあそこでお金を使って、次はあそこでお金を使う。お金を使うために街にいる。デモをしているとそういうことの外側にいるような気になれる。それはデモをしているときには、街のなかにいるのに何をするでもなくただ座ったり立ったりしているような時間が生じるからだと思う。デモに来ると、何かリセットされるような気持ちになるときがある。いつもそうとは限らないけど。ダイインの呼びかけがあって、デモに参加しているほぼ全員がアスファルトの上に倒れこむ。自分も倒れこむ。実際にパレスチナで倒れている人たちを表象する、その人たちの代理としてこの場に倒れこんで死体になるというのがダイインというものなのかなと思ったけど、このときはそういう気持ちではなかった。自分のことをあれやこれやと考えながら、道端に体を横たえる気持ちよさを感じていた。目を開けたまま仰向けになっていたので、空を飛んでいる飛行機が目に入ってくる。以前はここらへんはこんな近くを飛んでいなかったような気がする。顔を横に向けると、歩いている人たちが見える。まず歩いている足に目がいって、それから顔に向かう。なんとなく思っていたよりも、多くの人がポジティブな関心をこちらに向けているような気がした。それはただ私が体をアスファルトに横たえて、いい気持ちになっていたからそう感じただけかもしれないけど。

私は10分もしないうちに起き上がって駅に向かう。たいちくんはそのまま残る。山手線に乗り、目白駅から学習院に沿った通りを歩いてギャラリーに向かう。デモの余韻がからだに残っていて、閑静な街の雰囲気とのギャップを感じる。自分は東京が好きで、東京にいるということにいまだにふとうれしくなるのだけれど、このときもそういう感じがあった。

ももちゃんマンの展覧会は10年前のデモの映像を作品にしたものを展示していた。デモのなかで立っている警察官の姿が映されている。誰かを撮ること、凝視することにはたしかに非対称性や暴力性がつきまとってくるけど、撮ること、凝視すること自体が暴力なのではないと思う。そう言いたい。私はこの映像が撮られ、そして10年後の今こうやって見ることができてよかったと思う。当時のデモの熱気が記録されているけれど、作品自体からはむしろ静けさのようなものを感じた。10年という時間が経過していることも関係しているのかもしれない。ドローイングがけっこう売れていてうらやましくなった。

15人ほどでギャラリー近くのインド料理屋で打ち上げ。ある国から日本に来てアーティストとして活動している人たちとお話をする。その国では政治的な表現をすることは厳しく取り締まられているし、日本にいるからといって安心してできるわけではないという話を聞く。そういう話は以前も聞いたことがあったけど、実際にそういうなかで活動をしている人を目の当たりにすると感じることはずっとちがってくる。ただ、そういう危機感のなかにいながらも、あるいはいるからこそ、その人たちは表現することに対してとてもポジティブで楽しんでいるように感じた。今日の新宿のダイインのデモにも参加していたらしく、顔や首や腕に血を模した赤いペインティングが施されていて、その格好でカレーを食べているのがおもしろかった。自分のなかにその人たちのイメージは残っていて、今も私を元気づけてくれている。

金川晋吾

写真家。1981年京都府生まれ。2016年『father』(青幻舎)、2021年『犬たちの状態』(太田靖久との共著、フィルムアート社)、2023年『長い間』(ナナルイ)、『いなくなっていない父』(晶文社)、『集合、解散!』(植本一子、滝口悠生との共著)、2024年『明るくていい部屋』(ふげん社)、『祈り/長崎』(書肆九十九)刊行。主な展覧会、2022年「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」森美術館、2024年「祈り/長崎」MEMなど。

Website

つくりかけラボ16
金川晋吾|知らないうちにはじまっていて、いつ終わるのかわからない

会期:2024年10月12日(土)〜2025年1月26日(日)
会場:千葉市美術館 4階 子どもアトリエ

金川晋吾|知らないうちにはじまっていて、いつ終わるのかわからない | つくりかけラボ | 千葉市美術館

現在地のまなざし 日本の新進作家 vol.21

会期:2024年10月17日(木)〜2025年1月19日(日)
会場:東京都写真美術館
出品作家:大田黒衣美、かんのさゆり、千賀健史、金川晋吾、原田裕規

東京都写真美術館

『明るくていい部屋』

著者:金川晋吾
発行:ふげん社
発売日:2024年10月5日
価格:4290円(税込)

金川晋吾『明るくていい部屋』(サイン入り) | Fugensha STORE

『祈り/長崎』

著者:金川晋吾
発行:書肆九十九
発売日:2024年10月17日
価格:2970円(税込)

金川晋吾写真集『祈り/長崎』

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