4/11の今日は家で1日静かに過ごしていて特別書くに至るようなことが何もなかったから本当にとりとめもない私の最近のことについて。
最近私は初めて思い出す記憶が多い。ふっと空から落ちてきたもののように気が付くとそれは目の前に現れる。言い換えると今まで何かを思い出すことがほとんどなかったということでもある。
子供の頃はわけのわからない世界に適応して生きていくのに精一杯だったからか、立ち止まって振り返ったりする余裕なんてなかったのかもしれない。
多分大人になって少しずつこの世界に慣れてきたから思い出すことが増えてきたんだと思う。
思い返せば私は大層食い意地のはった子供だった。3食しっかりご飯を食べても常にお腹を空かせていて、食べ物を探しに森へ入って木の実を食べたり、教会でお菓子を貰ったり、学校帰りに道端で仲良くなった知らないお婆さんの家で早目の晩ご飯をご馳走になった後、母が用意した食事をまるで今日初めて晩ご飯をいただきますと言わんばかりの顔をして口へ運んでいた。
果ては小学校の昇降口にいた熱帯魚の餌用の小さな乾燥海老まで食べだす始末で、それを同級生に勧めたりするほどの狂児っぷりであった。そんな子供には当たり前だが友達はひとりもおらず、朝から晩まで叫び声を上げながら自転車で近所を走り回り、沈む夕日をひとりで眺め涙を流すという奇妙なルーティンに勤しんでいた。
こんなパンチの効いたエピソードをもってしても今まで一度も思い出すことがなかったのだから、忘れる/思い出すという行為がコントロールできないものだということを改めて考えさせられる。
特に思い出せて良かったことの中に、小さな赤ん坊の妹に初めて会った日のことや子犬が家に来た日のこと、光に包まれるような美しい物語の始まりに触れた瞬間がある。この美しい瞬間の記憶は思い出したその日から大切に手の中にそっと包んでどこにいてもすぐに思い出せるようにしている。姿形のないそれは私にしか触ることのできないお守りになった。
何かを思い出す時、過ぎ去った時間に触れる時、わたしはここにいながらここではないところへも行ける。その時わたしは肉体から抜け出し、微睡みながら真っ直ぐに伸びる時間の線上で佇む記憶の器として存在するのだ。