創作・論考
社会批判がユーモアを持って鮮やかに読み取れるロルヴァケル作品の魅力
2024/7/29
グレタ・ガーウィグ、ケリー・ライカート、ソフィア・コッポラなどもファンを公言し、『幸福なラザロ』『夏をゆく人々』などの作品で知られているアリーチェ・ロルヴァケル監督。最新作『墓泥棒と失われた女神』は『夏をゆく人々』と同様イタリアのトスカーナ地方を舞台とし、ギリシャ神話の悲劇のラブストーリーをモチーフに、幻想(キメラ)を追い求める墓泥棒たちの物語を描いています。
昨年公開された映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の監督である金子由里奈さんも、アリーチェ・ロルヴァケル監督の作品に魅せられた一人で、同監督の『幸福のラザロ』を観たあと、ぬいぐるみに「ラザロ」と名付けたそう。現在上映中の最新作『墓泥棒と失われた女神』を観て「爪の先まで映画を観る幸福に包まれた」という金子さんによる作品レビュー。
誰かの一生分のような夢から目が覚める。まだ一駅しか進んでいなくて、その人生を思い出そうとしても、記憶の編み目が笑うように解けていく。その人が確かに感じていた感情と、取り巻く世界がなくなった。車窓には鳥が飛んでいる。私の夢でさっき飛んでいたのとおんなじ鳥。もしかしたら目の前に座って本を読んでいる彼女の一生を見たのかもしれないし、彼女の手にある本の登場人物の物語を見たのかもしれない。はたまた隣の空席に座っている幽霊の見た夢にお邪魔してたってこともありそう。
こんな空想を信じたくなるのは、アリーチェ・ロルヴァケル監督作品『墓泥棒と失われた女神』を観たからだろうか。本作にもあらゆる境界を越境する鳥たちが飛び交っていた。私たちは渡り鳥がどこからきてどこへいくのか全てを目撃しているわけではない。彼らはどうやら、夢や現実、生死、物語から物語を行き来しているようだ。
アリーチェ・ロルヴァケル監督は社会への批評性をユーモアで包み込み、その寓話的世界観で素晴らしい映画を作り上げきた。『夏をゆく人々(2014年)』についで、本作の舞台も監督自身の故郷のトスカーナ。どこか過去作とも持続する物語世界で主人公を演じるのは『チャレンジャーズ』での快演も記憶に新しいジョシュ・オコナー。とにかく彼存在の力(りき)! 『幸福なラザロ(2018年)』の主役であるラザロもだけど、アリーチェ・ロルヴァケルの描く男性はなんともいえないペーソスが心をくすぐる。
アーサーは考古学愛好家で、とある能力を持っている。それは、そこら辺の枝で行うダウジング。アーサーは、「多くの目に触れた物」の気配を感じることができる。その能力を活かし仲間たちと墓泥棒をしていた。警察に捕まってから足を洗おうとしていたのに、塀を出たら今度は仲間たちに捕まって、再び墓泥棒をすることになった。
そんな彼には探している人がいる。婚約者のベニアミーナだ。彼女の母親で歌の先生のフローラの家とは深い絆で結ばれている。きっと、フローラもまたベニアミーナを探しているのかもしれない。フローラの新しい生徒であるイタリアとひそやかな恋に落ちながら、墓泥棒を続ける彼は、モノとの対話を通して、その魂を捉え直していく。そして、ベニアミーナの魂に手を伸ばすストーリーだ。
映画はアーサーが見ている夢からはじまる。夢の中で太陽に照らされて女性が笑っている。その肌。そして、電車で夢を見ている彼の寝顔へと滲むようにカットが移り変わり、カチカチとシャッターを押しながらファインダーを覗くと絵が変わるトイカメラで撮られたような、遊び心満載なオープニングクレジット。「映画だー!」と心で叫んでしまうような豊かさと驚きとユーモアと。映画を観る幸福が横溢していて思わず座り直す。目も無邪気な犬みたいに尻尾を振って、すでにこの映画の虜になっている。そして、この胸の高鳴りは映画が終わるその瞬間まで持続した。
本作であらゆるものを越境するための電車となるのがフィルムカメラである。撮影を務めるのは、これまでにも数多くのロルヴァケル監督作品を手がけてきたエレーヌ・ルヴァール。カチカチムービーではじまった本作は16ミリと35ミリ、スーパー16ミリで撮られ、夢と現実を行き来する。オープニングクレジットが開けると、「列車の到着」があったり、逃げたり追いかけたりするシーンではチャップリン時代の喜劇映画を観ているような早送りの演出があったりと、まるで映画史と手を繋いで軽快にスキップしているようでほんとうに楽しい。かと思えば突然第四の壁を壊されてドキッとする場面も。アーサーがダウジングで副葬品を見つける時は文字通り天地がひっくり返る。それはこちらが実は死の世界にいたかのような錯覚に陥る。アーサーたちが動物病院に副葬品の取引にきた際には監視カメラの映像も盛り込まれ、カメラが現代にわたって世界とどう呼応してきたかを映画を通して観察できる。
そして、アリーチェ・ロルヴァケル監督の映画はいつも社会批判がユーモアを持って鮮やかに読み取れる。墓泥棒たちは働かないで金を儲けているから、「働く者は青白く 馬には乗れずいつも徒歩 働く者は背中が曲がり 働かぬ者は金持ちに」と祝杯をあげ、資本主義から逸脱したつもりでいる。しかし女神の彫像の競売に潜り込んだ彼らもまた、結局は資本主義の歯車の中にいる。
また、人間と動物は持続しているというか、おんなじという監督の視点もあるだろう。赤ん坊の鳴き声を羊の鳴き声だと受け流す人がいたり、アーサーの小屋の隣人は鳥の鳴き声を真似ている。船上での競売で行われる墓泥棒たちの欲まみれの口論がアーサーには動物の威嚇のように見えたりする。ちなみに人間に見える植物も出てくる(!)。筆者の拙作『散歩する植物』を思い出して、ティータイムに「ねえ、なんでー! 知ってるよー!」って友達に共感してめっちゃ前のめりになっちゃう私が現れた。
アーサーが墓泥棒の仲間から大事な副葬品を返してもらった帰り道、16ミリフィルムで帰路の彼の背中を捉えたカメラ。そこに鳥が飛び立ってフレームアウト。次のショットは35ミリの映像で道を歩いているアーサーの正面。フレーム外に鳥たちの鳴き声が聞こえる。と思ったら道路の奥からトラクターに乗った仲間たちが鳥の鳴き声を真似て騒がしくやってくる。この一連に映画のマジカルが満ちていて、ああ、映画最高! って心になる。
エンドクレジットが流れ始めるその瞬間、探していたのは生者だけではないのだ、爪の先まで映画を観る幸福に包まれる。ああ、嬉しい! 最高な映画をありがとう! わたしの一時的な人生、映画があるのですでに最高! 物語はハッピーエンドがいいよ。ハッピーエンド最高! なんかもう最高しか言えなくなってきた。大好き。
私の家には「ラザロ」と名付けられたぬいぐるみがいる。ラザロと出会ったのは2018年、『幸福なラザロ』を観たすぐあとだった。『幸福なラザロ』では主人公のラザロが、狼と人間の境界を渡り歩くような存在なのだけど、古道具家に佇むぬいぐるみの狼を私は「ラザロだ!」と思ってお迎えした。家で冷静に対峙したらシベリアンハスキーだったのだけど、そんなことどうでもいい。この映画を観て、『幸福なラザロ』を観たあの日々も去来してもう身体が耐えられないほどだった。映画館という洞窟で、あの映画を映したスクリーンからほつれた糸が揺れていて、映画が私を探し続けていたことに気づいて、私はその糸に手を伸ばす。
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