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「めんどくさいと笑われることに怯えない」。“普通”になりたかった児玉雨子さんが自己受容するまで

ハロプロなどの楽曲を作詞し、小説家としても活躍する作詞家の20代の頃の葛藤

アンジュルムや私立恵比寿中学など女性アイドルグループをはじめとする様々なアーティストに歌詞を提供し、つんく♂さんに続いて「#児玉雨子パンチライン」というハッシュタグが話題になるほど、胸を打つ言葉選びで名曲を生み出してきた児玉雨子さん。2020年以降は『誰にも奪われたくない/凸撃』など小説家としても作品を発表し、『##NAME##』は『第169回芥川賞』候補作に選ばれました。

作詞家としてのキャリアのスタートは、弱冠18歳。しかし、20代は“言いなり”になることも多く、自分の人生を自分で選択できるようになったのは28歳以降だったそう。若さを搾取されるような場面も経験してきた児玉さんだからこそ言える「みんなを大事にする、そのみんなの中に絶対自分の存在を忘れないようにする」「あーでもないこーでもないと考えてしまうめんどくさい自分のままでいいと思います」といったコトバ。FRISKが新社会人に向けて応援メッセージを届けるプロジェクト「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」に寄せてくださった手紙の内容を踏まえて、自身の20代前半の葛藤、ターニングポイントなど語ってくれました。若い人にこそ伝えたい“自分の守り方”をお届けします。

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20代のころは最強に近い若年女性を“演じていた”

─児玉さんは若くして活躍されている印象があるので、手紙のなかで「私にとって第二次物心がついたのは28歳前後とつい最近のことだった。(中略)この時期から自分の人生を自分で選択する、ということに自覚的になったのは確かだ」と書かれていたことに驚きました。若いときから自分で決めてきたタイプかと、勝手ながら想像していました。

児玉:強そうに見られがちですが、実際はそんなことないんです。私は自我の目覚めが遅かったので、20代くらいまでは“言いなり”というか、自分の意見を言えなかった。だんだんと「ここは自分で決めないといけない」と自覚的になって、すこしずつ自我が出てきました。ただ、結局思うように意思表示ができなくて落ち込むことも未だにあります。

「めんどくさいと笑われることに怯えない」。“普通”になりたかった児玉雨子さんが自己受容するまで

児玉雨子さん

─手紙から、20代の頃はたくさんの葛藤を抱えていたのではないかと想像したのですが、いかがですか?

児玉:そうですね。私は文系で大学院まで進学しているんですけど、当時は珍しかったので「モラトリアムの延長」のように見られていました。理系ならわかるけど、文系で院? って。「いつまで学生をやるの?」とか、当時から作詞の仕事をいただいていたので「それで食べていけると思っているの?」とか。そういったことは周囲からずっとずっと言われてきました。私もどうなるかわからないので不安になって……ただ同時に、そんなことを言われても誰にも私の将来はわからないしな、とも思っていました。私は、臆病な殻の中にものすごく図太い自分が心の奥底に居るんです。不安で、普通になろうとする自分と、「最後は自分で決める」と頑なな自分、ミルフィーユのように様々な私が重なっていて。

「物心ついたころ」という表現があるけれど、一度物心がつけば人格が爆発的に形成されるのではなく、第二次性徴のように、第二次物心、第三次物心……と段階的についてゆくものなのではないか、とおもうのだ。
私にとっての第二次物心がついたのは、28歳前後とつい最近のことだった。これが遅いのか早いのかはまだわからない。ただ、この時期から自分の人生を自分で選択する、ということに自覚的になったのは確かだ。

手紙の序文。児玉雨子さん直筆の手紙全文は4月11日(木)から下北沢BONUS TRACKで開催されるFRISK『#あの頃のジブンに届けたいコトバ展』で展示されます(詳細はこちら)。

─自己の格闘があったなかで、だんだんと自分で決めることに自覚的になったきっかけは?

児玉:年齢や時代の影響もあると思います。最近は、ジェンダーロールで決めつけることをやめようという動きがありますけど、ついこのあいだまでは、女らしさ、男らしさをまだまだ信じて疑わない雰囲気はありましたよね。しかも女性の社会進出ってジェンダー平等とは名ばかりで、女性は結婚したら家事をして、育児をして、仕事も完璧で、男社会の中で気が遣えて、しかも容姿も綺麗、という“最強生物”を求められやすいじゃないですか。その影響もあって、20代のころは最強に近い若年女性を“演じていた”のかもしれないです。ここ数年はそういった社会からの「こうあってほしい」にはっきりと疑問をもって、属性に強さを求めることがなくなって、ようやく「いいじゃん、全部なんかできないよ」と思えるようになりました。

みんなを大事にする、その“みんな”の中に絶対“自分”の存在を忘れない

─「作詞家というオリジナリティが求められる仕事をしていてもなお、業界内の普通にならなければと焦っていた」という一文も切実なものがあり……当時、どのような不安があったのか、お伺いしてもいいですか。

児玉:たとえば、職業作詞家・作曲家は基本コンペなので、“あの歌手・アイドルグループに楽曲を提供したらプロとして食べていける”という “王道ルート”みたいなものがあるんですね。他の業界にもそういうものはあると思うのですが、私はずっと「王道ルートには乗りたくない」と思っていました。なぜなら、そこで楽曲提供できたとしても、クライアントが望むものをつくるばかりで作家の独自性は二の次になってゆく気がして。

王道ルートで活躍していても、名前の知られている作詞家・作曲家は少ないと思います。私はもっと、職業作詞家・作曲家の名前が前に出てもいいと思っていたので、今までのやり方ではやらなかった。単純に天邪鬼で、みんなと同じことをするのはつまらん、という気持ちもありましたけど(笑)。ただ、周りは頻繁にコンペの話をするので、自分の選択に自信があったわけではないです。こっちの道で大丈夫なのか……と不安に思う時間は長かったですね。

─大多数とは別の道を歩んでいるとき、児玉さんのなかで大事にされていたことは?

児玉:これを意識するようになったのはここ最近のことですが、自分の感覚を大切にひとつひとつ選ぶようになりました。かつ、関わっている人がつらい思いをしていなければいいと思っています。それは、自分も含めて。

─なるほど、自分も含めてつらい思いをしていないか考える。

児玉:黙って「わかりました」と修正したほうが楽なこともあるんですけど、それをやり続けていたら自分を見失いかけたので、みんなを大事にする、その“みんな”のなかに絶対“自分”の存在も忘れないようにしようと思っています。周りも大事にするけれど、自分も犠牲にしない。

第二次物心の前であった20代前半から半ばであるあなたは、ふつうの型にはまろうと努めている。そうだろう? 当時から作詞家というオリジナリティが求められる仕事をしていてもなお、業界内のふつうにならなければと焦っていた。
自分より立場のある年上の人間たちに「これが社会というものだ」と断言されてしまうと、もう何も言い返せない。
その社会なるものに対して、私がふつうじゃないから違和感を抱くのだろうな、と思っているのだろう。
そんなことないよ。私は、何ものにも取り替えられない私らしさを守り抜いていい。

児玉雨子さんの手紙抜粋(「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」presented by FRISK より)

─それは、すごく大切なことだと思います。手紙にもありましたが、自分より立場が上の人間に「こういうものだ」と断言されると何も言い返せない状況はよくあり、気づけば自分自身を犠牲にしてしまいますよね……。

児玉:振り返ってみて思うのは、みんないろいろ言ってくるわりには、その後のケアってしてくれないんです。「自分の人生を自分で選択する」っていうのもポジティブなニュアンスだけではなくて「周りの人はいろいろ言うけど、なんの責任も取ってくれない」というだけ。これから社会に出る人たちに対して厳しい現実を突きつけるようですけど(笑)。

ただ、中にはいい人もいます。私は若いころは全員大人は敵だと思っていたけれど、最近になって優しい人に出会えていたなと気づきました。でも、そういう出会いがあったのは、私が腐らずに、やっぱり自分で在りたいと踏ん張ったからで、頑張りどころを間違えちゃいけないと思います。「頑張る」というのは自己犠牲じゃない。むしろ自分を守ることを頑張っていたら、ちゃんといい人に出会えるはず。

─頑張って積み重ねてきても、一度ダメージの大きなものにぶつかると一気に崩れたりしませんか。

児玉:めちゃくちゃあります。ただ、全部間違いってことはあまりなくて、ミスしても必ずフォローしてくれる人が現れて、私も安心して自分の非を反省できるだろう、という自信があるのかもしれないです。楽観的だけど、誰かは私をちゃんと見てくれているって。そういう人たちがいるところに行こう、というのは気にしてきたかもしれません。

私が私であることに慣れた

─手紙には頻繁に「普通」というコトバが出てきます。「私は普通じゃないから違和感を抱くのだろう」とありますが、自分のどんなところが普通じゃないと思っていたのでしょうか。

児玉:小学生以前から、グループというものに全く馴染めなくて、通信簿にも「いつも一人でいます」と書かれていました。全く自分の異質さに気づいていなかったのですが、中学生くらいで「これは普通じゃないんだ」と思って。20代前半くらいまで「普通になりたい」と、強迫観念のようにずっと思っていて、就活をしたときもなるべくお堅い仕事に勤めようと思っていました。でも、ES(エントリーシート)で全部落ちて(笑)。最近です、やっと普通の呪縛から解かれたのは。

─個性が求められるけれど、「普通」にあこがれたんですね。

児玉:私も個性は大事だと思いますが、そんなこと言っても結局は「許容できる範囲の個性」が選ばれるのが現実で、学校生活もしんどかったです。みんなのことがそれぞれ好きだからみんなと話したいのに、グループ文化が強い学校だったので、特定の子と以外話せない。私は他人と四六時中一緒にいる状態が耐えられなくて、どうしてみんな協調して一つのグループに属せるんだろうって思っていました。

─「普通」から解かれたきっかけは?

児玉:そうですね……私が私であることに慣れた、というのが大きいです。ポジティブに自分を認めたわけではなくて「もう懲りた」っていうニュアンスが近い(笑)。自信を獲得してきたわけでも夢を諦めたわけでもなく、「私は、私以上にも以下にもなれない」と骨身にしみて、慣れるという形での自己受容をしました。

─私に慣れてから、マインドには変化がありましたか。

児玉:「まあ、いっか」が増えました。マイナスな表現に捉えられがちですけど、なんていうんだろう……人間変えられる部分もあればどうしたって変わらない部分もあるので、後者を「まあ、いっか」と受け入れられるようになると、楽になりました。たとえば、私はグループで連絡を取り合うとパニックになってしまうんです。目を離した隙にメッセージがたまるのがどうしても不気味で、仕事や要件があるものなら対応できるのですが、プライベートのグループLINEは抜けるようにしているんですよ。「すみません、私パニックになるんで、連絡があれば個別で言ってください」って、正直に。苦手なことを認めてから、他人の苦手なことも受け入れられるようになりました。

続けることで誰かが見てくれることがある

─20歳のころ、やりたいことや将来の夢についてはどんな風に考えていましたか? 児玉さんは高校2年生のころから小説を書かれていたそうですが、キャリアとしては作詞家からのスタート。想像していたこと、夢見ていたこととは違うスタートでも、児玉さんが手放さないようにしていたことはありましたか。

児玉:小説は好きだから書いていた、という感覚が強いのですが、一時期もしかしたら小説を書くことに向いていないのかもしれないとくじけそうになって、小説を書かない時期を作ってみたことがあります。そこで、あれこれ書きたいことが出てきたので、小説は趣味として続けていこうと決めて。

好きなことでごはんを食べていく、という考えがありますけど、好きなことを仕事にせず、ただ続けることも決して悪くないですよね。たまたま私は書評のお仕事をいただいて、それを送ったら担当の編集者が個性的な人で「君、小説書けるね?」って。ほんとうにこういう言い方だったんです(笑)。そうして書き始めたら、他でも声をかけていただくようになりました。月並みな言い方ですけど、続けることで誰かが見てくれることがある。ただ、嫌いなのに続ける必要はないので、休憩も挟みながら続けてみる。好きがアイデンティティに直結していると、好きを仕事にできないときに自分という存在を全否定しそうな気分になっちゃうと思うから、好き/仕事は分けて考えていいと思います。

「めんどくさいと笑われることに怯えない」。“普通”になりたかった児玉雨子さんが自己受容するまで

児玉雨子さんの小説『##NAME##』(2023年、発行:河出書房新社)は『第169回芥川賞』候補作に選ばれた

─小説以外にも、好きで続けていることはありますか?

児玉:作曲です。ただただ好きで書き続けていて、偶然「詞と曲、両方提供してもらえませんか」と言ってくれる人が出てきて、仕事の機会も増えてきましたが、わりと個人的に作っている期間は長かったと思います。

へりくだればどうにかなる、という空気に自分も合わせていたことを今でも後悔している

─人の物心は段階的なのではないかという前提で、ご自身は28歳が「第二次物心」のついたターニングポイントだと手紙に書かれていたのも印象的です。どんなきっかけがあったのでしょうか?

児玉:生々しい話ですが、事務所を移籍したことは大きかったです。そこで出会った人たちが、これまで私が傷ついてきたこと、泣き寝入りしなきゃいけないと思っていたことを、法務の視点など具体的な戦い方を交えて「声をあげていい」と教えてくださって。いきなり声をあげられるわけではないので、たとえば言い返さなくても難色を示してみて、少しずつ自分を守れるように態度を変えました。

「物心ついたころ」という表現があるけれど、一度物心がつけば人格が爆発的に形成されるのではなく、第二次性徴のように、第二次物心、第三次物心……と段階的についてゆくものなのではないか、とおもうのだ。
私にとっての第二次物心がついたのは、28歳前後とつい最近のことだった。これが遅いのか早いのかはまだわからない。ただ、この時期から自分の人生を自分で選択する、ということに自覚的になったのは確かだ。

児玉雨子さんの手紙抜粋(「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」presented by FRISK より)

─自分を守る、という態度はとても大事ですね。

児玉:そのために、できること/やりたいことを切り分けて考える必要はありますよね。若いころは、手広く全部やってみるのも大事。ただ、やってみたうえで「合わない」と思ったことに関しては、私は無理して受けないようにしているんです。引き時が怖いこともあるけれど、必ずタイミングが来る。若いと自分を信じるほど経験がない場合もあるけれど、搾取されるくらいなら根拠がなくても自分を守るべきだと思います。

─「自分らしさ」がもてはやされますが、自分らしさを自分だけで構築するのは限界があるように思います。自分らしさや自分自身を守るためにも、「対等に尊重し合える人と出会って言葉を交わして」こそ「自分の世界を構築していけるのではないか」と児玉さんの手紙を読んで、あらためて思いました。

児玉:歌詞を書くという作業は曲を作る人との分業なので、自分にはないメロディーだからこそ生まれる歌詞があるんです。作曲家さんも同じように「自分だと出てこない歌詞が書かれていてうれしい」と言ってもらったことがあり、そうやってお互いに尊重して仕事をする実感を積み重ねてきたことが、今の私を作っていると思います。

児玉雨子さんが作詞したアンジュルムの楽曲『46億年LOVE』(ANGERME [4.6 Billion Years Love])(Promotion Edit)

児玉:いろんな人に出会うなかで思ったのは、他人に対して雑な人は自分にも雑なんです。逆に仕事ぶりが丁寧な人をよく見ていると、自分のことも大事にしていて。本来私は雑なタイプだったけれど、丁寧な方々に影響を受けて自分を守ったり自分で決めたりできるようになりました。

自分のことを大事にする=へりくだりすぎないことが大切で、私が20代のころは「させていただきました」を多用することが問題視され始めた時期だったんです。へりくだればどうにかなる、という空気に私も合わせていたことを今でも後悔しています。やっぱり、間違っていたと。そう考えると、新社会人として感じた違和感は、あながち間違っていないと私は思います。意見するのは勇気がいるけれど、自分を大事に、へりくだりすぎないことから始めるのはいいと思います。

ひどい人間だらけだが、対等に尊重し合える人間もちゃんといる。そういう人と出会い、言葉を交わし、自分の世界を構築してゆけるのだ。もちろん考えがいまいち合わない人もいるし、何もかも思い描いた通りの今ではなく、日々再構築し続けている。それでもこんなふうに断言できる。
これが私の愛する世界というものだ。きっとあなたも作れる。

児玉雨子さんの手紙抜粋(「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」presented by FRISK より)

─始めは態度で示して、だんだんと意見できるようになってきますよね。

児玉:そうですね。ただ、思うのは、若い人は時代の担い手であるはずなのに担わされていないときがあるじゃないですか。自分の発言が通らないとか、そもそも聞いてもらえないとか。上の世代の人が、もう少しきちんと考えなくてはならないことだと思っています。本当は20代前半の声をもっと聞くべきだと、自戒も込めて伝えたいです。

「簡単な尊厳なんてこの地球上のどこにも存在しない」

─「面倒くさいと笑われることに。覚えないこと、わかりやすくて簡単な人生、簡単な個性簡単な尊厳なんてこの地球上のどこにも存在しない」という文章は、児玉さんの生きていく上での覚悟ではないかと感じるほど強さがありました。この文章に込めた想いについて、もう少しだけお話を聞けますか。

児玉:少し前に、一筋縄ではいかない人を指す「こじらせ◯◯」という言葉が流行っていたと思います。私もよく「こじらせてるね」と言われていました。そこで「私はめんどくさいんだ、もっとわかりやすくしなきゃ」と葛藤したんです。でも、私のあーだこーだと考えてしまうクセはなおらないし、いざわかりやすく振る舞ったら大切にされないんです。わかりやすいから、簡単に扱われちゃう。それならもうキャッチーであることをやめよう、というのは意識的に変えました。

ときどき、自分の仕事に意味なんてあるのだろうかと考え込んでしまうだろう。
ないよ。だから意味は自分で作ればいい。誰かのジャッジで定義されるものでもない。
冗談でも「めんどくさい」と笑われることに怯えているのだろう。
いやだよね。でもわかりやすくて簡単な人生、簡単な個性、簡単な尊厳なんてこの地球上のどこにも存在しない。

ひどい人間だらけだが、対等に尊重し合える人間もちゃんといる。そういう人と出会い、言葉を交わし、自分の世界を構築してゆけるのだ。もちろん考えがいまいち合わない人もいるし、何もかも思い描いた通りの今ではなく、日々再構築し続けている。それでもこんなふうに断言できる。
これが私の愛する世界というものだ。きっとあなたも作れる。

児玉雨子さんの手紙抜粋(「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」presented by FRISK より)

─わかりやすさではなく、あーだこーだの方を大切にするように。

児玉:他人との関わり方や、仕事についても同じです。仕事をする上でキャッチーでわかりやすい歌詞こそいい歌詞、と教わってきたのですが、そうだろうか? とも思っていますね。それは解釈や深読みが好きなリスナーの存在を忘れているし、私はそういう人の目を見ていたいのです。簡単に自分の解像度を下げて順応しようとしてしまうくらいなら、わかんないほうが悪いくらいの気持ちでちょうどいいんだろうなと私は思っています。

児玉雨子

作詞家・小説家。神奈川県出身。アイドルグループ、声優、テレビアニメ主題歌、Vtuberや近田春夫などジャンルを問わず作詞提供。2023年に『##NAME##』(河出書房新社)が第169回芥川龍之介賞候補作にノミネート。

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「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」presented by FRISK

新たな一歩やチャレンジを前向きに踏み出すことを応援するFRISK「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」では、11組のアーティストやタレント、クリエイターが「あの頃」のジブンに宛てた手紙を執筆。手紙の内容について、CINRA、J-WAVE、me and you、ナタリー、NiEW、QJWebでインタビューやトークをお届け。直筆の手紙全文は4月11日(木)から下北沢BONUS TRACKで開催されるFRISK『#あの頃のジブンに届けたいコトバ展』で展示される。

FRISK「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」

「#あの頃のジブンに届けたいコトバ展」トークショー presented by FRISK

展示に加え、本プロジェクトにメッセージを寄せていただいたアユニ・Dさん、児玉雨子さん×めがねさんに登壇いただき、ご自身が何者でもないフレッシャーだった頃を振り返りながら、新生活における悩みや迷いとの向き合い方、気持ちを前向きにする方法などについてコトバを贈るトークショーを開催。

会場:下北沢・BONUS TRACK LOUNGE
日時:
児玉雨子さん×めがねさんトークショー
4月11日(木)19:30~20:30(開場:19:00)

アユニ・Dさんトークショー
4月14日(日)14:00~15:00(開場:13:30)

スペシャルトークショー│『あの頃のジブンに届けたいコトバ展』

※開催日時は変更になる場合がございます。
※応募方法詳細はスペシャルサイトをご確認ください。

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