幼い頃から、ちいさいものを集めることが好きだった。鉛筆、メモ帳、シール、イヤリング、靴下、ハンカチ、トートバッグ、ぬいぐるみ……。
小学校の授業が無い土曜日、いつもより遅く起きた朝は、部屋の片隅に置かれていたチラシの束や、お菓子のパッケージを眺めるための時間だ。かわいいイラストを見つけるとはさみで切り抜いて、クリアファイルに挟んでコレクションする。スナック菓子のパッケージは裏面がオイルやパウダーでつるつるしているから、ティッシュで拭ってから挟む。家族で滝を見に行くためにドライブをして、その道中にある売店で見つけた、目がてんてんになっているわさびのキャラクターがかわいくて、なんだか切なくて、胸がぎゅうぎゅうになった。だけど、そのポスターを切り取ることもできないし、グッズも売っていない。どうすることもできないから、ずっと忘れたくないと思った。
その頃のわたしは、とくに鉛筆を熱心に集めていた。ショッピングセンターの一角にあるファンシーショップやスーパーの片隅にある文房具コーナーに置いてある、一本60円の鉛筆。先端に透明な音符や星のチャームが着いているものは80円。チェーンがついたデニム地の筆箱のなかに、お小遣いやお年玉で買い集めた100本ほどの鉛筆をコレクションしていた。ラメでぷっくりと盛り上がった四葉のクローバー柄、炭酸飲料やお菓子のパロディ柄。パールのようにつややかに光り輝くもの、ソーダ味の砂糖をまぶしたように全体がキラキラしているもの。細鉛筆や、お土産屋さんで売っているぐにゃぐにゃ曲がる鉛筆も羨ましかった。使うたびにイラストが削れてしまうことが悲しくて、お気に入りの鉛筆はいつまでも字や絵を書くことのないまま、HAPPYとプリントされた宝箱の底で眠っている。
一時期、筆箱を見せ合うことがクラスで流行った。教室はルールで満ちていたから、筆箱だけが、ドラえもんの四次元ポケットみたいにどこか別の場所に繋がっている気がした。
「筆箱見せて」
そう言われて互いの筆箱に入っている鉛筆や消しゴム、定規などを一つ一つ取り出して眺めていく。先端にフルーツやハムスターの消しゴムが閉じ込められたキャップを見つけるとなんとなく嬉しかった。同時に鉛筆交換も流行った。交換をしよう、と誘われたことが嬉しくて、一度、大切にしていた「メゾピアノ」の鉛筆を交換してしまったことがあった。自分で決めたことなのに、だからこそ、ひどく落ち込んだ。友だちはうれしいのに、わたしは悲しいってことがあるんだね。自分の一部を奪われてしまったような喪失感があって、でも、たぶん本当にそうだった。わたしも、友だちの筆箱に引っ越していったわたしのものだった鉛筆も、かつて友だちのものだった色褪せたわたしの鉛筆も、元を辿れば同じ星からうまれたことや、ひとつの点だったということは、今よりもよくわかっていた。
今でも、物への執着心を捨てることができない。当然、部屋は物で溢れている。一つ買ったら一つ捨てる、という生活の知恵をよく耳にするけれど、何を捨てたらいいのかわからない。中学生の頃使っていた、ぼろぼろに色褪せた「SWIMMER」のペンポーチが未だに部屋に転がっていたりする。
ペンポーチとして使うことはもうないだろうけれど、そのパステルカラーのくまやお菓子柄を見ていると、学生時代の思い出がふわっと脳裏に甦ってくる。それは本来の用途よりもおおきくふくらんで、時間や思い出そのものを包み込む。そうすると自分の部屋に、もしくはこの地球上のどこかに置いておきたくなってしまうのだ。
ここ数年のわたしは、とくにネイルポリッシュを熱心に集めていた。爪に塗布するための液体たちはあらゆる場所で息を潜めて、誰かの薄い皮膚の上で踊る時を待っている。
わたしは爪が好きだ。目のなかにある水晶体もそうだけれど、自分の身体のなかに透明な部分がある、という不思議に強く惹きつけられている。硬くて透明な爪と、柔らかくて不透明な肌の境目を見ていると、むしろ全身が透明ではないことの方が不思議に思えてくる。
人には、心が落ち着く、安らぐ、という時間がそれぞれにあるはずだ。早朝の料理だったり、眠りにつく前の読書だったり、陽が沈む時間に合わせて散歩をしたり。それがわたしにとっては爪を塗ることだった。
夜、一人で爪を塗っていると、筆で撫でたように心はなだらかになる。日中から、次は何色に塗ろうかと思いを巡らせる、大体は青か水色になる。手を洗って爪の表面を綺麗にするところからはじまって、まずはベースコートを塗る。乾いたら、その上にポリッシュを、一回目は薄塗りで、二回目はやや液をたっぷり取って塗り重ねていく。乾燥中は、爪先の塗装が剥がれやすいので、身動きが取れない。額が痒くても、喉が渇いても、爪のために、じっと我慢をする。
なにもできない時間、なにもしなくても良い時間がわたしに訪れる。エアコンの風を切る音、シンクの蛇口からぽとんと落ちる水音、詩のことを考えていなくても怖くなくなる。月面のようにつややかな水色を湛えた表面を、強く擦っても剥がれないことを確認すると、眠りにつく。それでも翌朝、乾ききっていなかった爪の表面がシーツのようにしわしわと波打っている時もあって、そんなときは落ち込んでしまう。オレンジ色の除光液でそれを剥がして、もう一度ポリッシュを塗る。十日ほど経つと、自然とすべての爪から水色は剥がれている。
とある冬の日、ネイルサロンに行った。渋谷のビルの一室にあるサロンだった。案内されて椅子に座ると、カウンセリングシートに希望の爪の形や、爪まわりの悩みなどを記入していく。そして会話をしたいかどうかを記入する箇所があった。
《会話をしたい・静かに過ごしたい・おまかせ》
わたしは、静かに過ごしたい、に丸をつけた。部屋の片隅で電飾の巻かれたクリスマスツリーがぴかぴかと光っている。消毒のためにウェットシートで手のひらを拭われる、薄いシート越しに、爪や皮膚、骨の鈍い感覚がある。こんな風に、見ず知らずの相手と手のひらを重ね合わせることは珍しいことだなと思った。繋ごうと思わない手のひらは陶器の皿のようで、硬くって冷ややかで心地よかった。向かいに座っているその人の白いニットや、爪に描かれた雪だるまをぼんやり眺めていた。連なるちいさな窓のなかで、その雪だるまは赤い帽子をかぶっている。その世界にも雪が降っている。
真剣な手つきでわたしの爪の表面を削り、ジェルを塗布する。LEDライトの青白い光が爪先を照らす、ジェルは硬化するときに熱を持ち、薄くなった爪の内側に光が染みるように痛い。
「痛くないですか?」
爪を削るたびに、光を照らすたびに、その人はわたしに声をかけてくれる。わたしは頷く。爪の上でラメがきらきらと光る、室内では緑色に、自然光の下では紫、水色にも変化する。店を後にすると、ビルの隙間から覗く夜空に手をかざして、爪先の写真を撮ってみる。シャッターが降りるよりも速く手を動かしてしまうと、ラメは暗闇に滲んで繁華街の光に紛れてしまう。こういったささやかなものたちを大切にしたい、子どもの頃からずっとそう思い続けている、別に、だれかに粉々にされようとしているわけでもないのに。
早歩きで改札を抜けると自宅へ向かう電車に乗る、友だちにおつかいを頼まれて買ったブックエンドの重みを膝上に感じながら、指の腹で爪先を撫でる。鼻先はつんと湿っているのに、足首を撫でる風の熱さが全身に巡りどろりと頭が重くなる。だれかに爪を塗ってもらうって、光がそこに注ぎ込まれたみたい、身体のなかにうまれた水辺から波紋が広がっていく。手の内側に爪を立てると皮膚の下が白くなって赤くなる、透明はまだ遠いみたいだし、爪先に宿る水色はちいさくてまばゆくて離れないでいて、だから安心する。