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フツーの恋愛、性愛ってなに?『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』刊行記念トークレポ

羽生有希×中村香住×深海菊絵×松浦優 性に関する研究者たちが語らう

2023年5月に刊行された、アセクシュアルの著者による経験と、100人のインタビューにもとづくルポエッセイ『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』。本書の刊行を記念して下北沢B&Bで行われたトークイベント「フツーの恋愛、性愛ってなに?」のレポートをお届けします。

イベントに登壇したのは、重なりながらも異なる研究領域を持つ羽生有希さん、中村香住さん、深海菊絵さん、松浦優さんの4名です。

『ACE』の訳者でもあり、クィア・フェミニズム理論が専門の羽生有希さんは、本書が「フェミニズムやクィアスタディーズの議論を一部批判しながら、それをさらに前に進める形で展開している」ことを魅力として挙げました。また、メイドカフェにおける労働についての研究に従事し、クワロマンティック実践についても発信している中村香住さんは、「エースについてのステレオタイプを覆すような非常に豊かな記述であり、これを多くの人が読みやすい形で手に取れるようになったことが意義深い」と話します。

文化人類学者で、ポリアモリー研究に従事されている深海菊絵さんは、一見距離のあるようにみえるポリアモリーとアセクシャルの類似点を感じながら読んだそうです。そして、アセクシュアルやフィクトセクシュアルについて研究されている松浦優さんは、「社会の状況やあり方、あるいは構造に問いを投げかけるということがなされている点で、あらゆる人々に性を巡る思考を促している」ことを重要な点として挙げました。

それぞれの立場から恋愛規範を問い直し、感情の問題だとされがちな“恋愛”を取り巻く社会側についての視座が広がる時間でした。

※松浦さんはリモートで参加されました。

アセクシュアルと「強制的性愛」という概念の重要性

まず、松浦さんが本書を読んでいて重要だと感じた「強制的性愛」という概念について対話が行われました。「強制的性愛」とは、詩人アドリエンヌ・リッチの「強制的異性愛」という概念を転用したもの。強制的異性愛とは、異性愛のみが生来のものであるという想定と、女性は男性によって守られるべきなどという考えに基づく行動が繰り返されることによって、異性愛が制度化されるという概念です。

『ACE』の著者アンジェラ・チェンは、強制的性愛も強制的異性愛と同じように、このような想定と行動が「すべてのノーマルな人は性的で、セックスを欲しないのは自然に反している」などといった考えを下支えするとしています。

また『ACE』では、人々のセックスレスへの恐れが最も明らかな強制的性愛の例であることや、セックスの減退がいかに経済的不景気に至りうるかについての記事や、セックスレスの原因がソーシャルメディアの人気によるものだとする研究が存在していることが挙げられています。しかし、そうした記事や研究は、間接的にセックスしない人のことを快楽のない人や快楽を享受する能力がない人としてまなざしており、アセクシュアルに対する「壊れている/失意の(broken)」という否定的な連想に繋がるといいます。

フツーの恋愛、性愛ってなに?『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』刊行記念トークレポ

『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』(著:アンジェラ・チェン、訳:羽生有希、発行:左右社/2023年)

松浦さんと羽生さんは、クィアをめぐる言説の中でも性愛が自明なものとされている現実を指摘し、その中で強制的性愛という概念は、クィアの内部から性愛について問い直す姿勢につながると話します。

松浦:いわゆるLGBTという言葉の知名度が上がる中で、「誰かを好きになるのは当たり前のことで、それが異性だろうが同性だろうが関係ないんだ」といった、一見ポジティブな言われ方をすることがあると思います。でも、それは異性愛を前提にしていないとしても、依然として性愛を自明なものにしてしまっている。それを捉えるという点で、強制的性愛が重要な概念になると思います。

架空の対象との性愛であるフィクトセクシュアルについて研究しているわたしの関心としては、この強制的性愛への批判には、性的とみなされるものが一体何であるのかということを問い直す議論が含まれていて、非常に興味深いなと思いました。この本の中ではBDSM(ボンデージ、ディシプリン、ドミナンス、サブミッション、サディズム、マゾヒズムを指す)の話が出てきますが、たとえば架空の性的なコンテンツを愛好することも、必ずしも現実での性的関係や人間に対する性的欲望と結びつくとは限らないわけで、そういった議論を切り開いていくうえで、強制的性愛は非常に示唆に富んだ概念だと感じています。

羽生:ありがとうございます。わたしとしては、「強制的異性愛」という概念が歴史的にどういうふうに出てきたかというところも重要かなと思っています。アドリエンヌ・リッチの言う強制的異性愛は、その当時はフェミニズムでさえも、主流社会とレズビアン差別をある程度共有してしまっていたことへの問題意識があると思うんですね。それが強制的性愛という概念を考えるときにも重要だと思っていて。

要するに、クィアの人たちがすごく頑張ったことで非規範的な性愛のあり方が認められてきたとしても、一番一緒に考えてほしかったクィアたちがちゃんと考えてくれてないことに対して「お前たちに、もっとちゃんとアセクシュアルのこと考えてほしかったんやで」っていう怒りがあった。強制的異性愛がフェミニズムへの内部批判的であったのと同様に、強制的性愛もクィアを引き継ぎつつ、でも内部批判的なところがあるのかなと思って読んでいました。

女性同士の親密な関係性を描く「百合」は、狭い意味での恋愛だけでない絆を描くことができる

これに対し中村さんは、性愛に限らない女性同士の親密な関係性を描く百合というジャンルに希望を見出しながらも、そもそも不可視化されやすい現実のレズビアンをさらに無効化してしまうことにも繋がりかねないと話します。

中村:強制的異性愛の概念、わたしもすごく思うところがあって。アドリエンヌ・リッチが言う「レズビアン連続体」は、原文で言うところの「生殖器的性経験」を持つ人だけでない、もっと広い意味での女性同士の結びつきや絆、ある種シスターフッド的な部分も含めて相互扶助しつつやっていく女性たちの経験を指しているんですね。しかし、それが狭義のレズビアンが持っているクィア性や政治性のインパクトを取り去ってしまうんじゃないかという批判も当然あるわけです。

わたしはレズビアンでもあり、個人的に、女性同士の親密な関係性を描く「百合」というジャンルが好きなんです。ある種の百合には、わたしがクワロマンティック(「恋愛的魅力」や「恋愛の指向」といった概念自体が自分にとっては意味をなさない・適さないと感じるアイデンティティ)的と言っているような関係性を描いているものも結構出てきている。明示的なものもあれば、そういうふうに読めるというものもある。つまり、百合は狭い意味での恋愛だけじゃない、もうちょっと広く、女性同士の絆をかなり多様な形を描けるというところが強みだとわたしは思ってきたんですね。

ただ、そのことが狭い意味でのレズビアンの存在を無効化したり矮小化したりすることにも繋がりかねなかったり、当然、当事者を客体化する作用もあったりする。そういうところをどう考えていくかという点でも、強制的異性愛は重要な話だなと思いました。わたしは狭い意味での恋愛に自分が閉じ込められるのが嫌なので、よくTRP(東京レインボープライド)とかで「独り身でもレズビアン」っていうプラカードを掲げています。「一人でもレズビアンだよ」というのも、強制的異性愛から生まれた強制的性愛という概念に関わる話かなと思いました。

「独り身でもレズビアン」プラカードを持って歩く中村さん

深海:そのような経験が、ポリアモリーにも同じくあって。ポリアモリーは複数の人と合意の上で親密な関係を築いていく概念なんですけれども、ソロポリアモリストという人たちがいて。ソロポリアモリストは多くの場合、パートナーと住居や経済をシェアせず、法的絆をもっていません。そのようなかたちで合意の上で複数の人たちと関係を築いていきたいかれらにも、同じような葛藤があるかなと思います。

「『惹かれ』の分類をすることで、アセクシュアル同士でも差異があることを認めながら、同じ旗印のもとに集いやすくなることがある」(羽生)

続いて、第2章で展開される「惹かれ」の分類について対話がおこなわれました。1940年代に性科学者のアルフレッド・キンジーが異性愛か同性愛であるかを0から6のスケールで表す性的指向についてのモデルを作成していた際、既にアセクシュアルの人々について知っていたのにも関わらず、アセクシュアルをそのモデルには含めずにXという別のグループに入れたそうです。これによって異性愛や同性愛、両性愛といった言葉が普及した一方で、アセクシュアルは長い間語られることがなく、「言葉の欠如は、経験を孤立させる」とアンジェラ・チェンは言います。

中村さんと羽生さんは、アロマンティックとクワロマンティックの違いについて触れながらも、どのラベルを受け入れるかはその人の経験や、一人の人でも場面によって異なると話します。

羽生:「惹かれ」の分類をすることで、アセクシュアル同士でも差異があることを認めながら、同じ旗印のもとに集いやすくなることがある。また、「性的であること」が実際にどのように強制されているのか、より見やすくなる。そういう分類が大事である一方で、そもそもの恋愛や惹かれがよくわからないという話も当然あります。なので、一旦その分類を踏まえた上で、改めて問い直すということがとても重要だと個人的に思います。まずは中村さんに、クワロマンティックがそもそもどういうことなのか、クワロマティックについて語る重要性がどういうところにあるのかお聞きしたいです。

中村:よく「アロマンティックとクワロマンティックってどう違うんですか」「自分はアロマンティックだと思っていたけど、クワロマンティックの方がしっくりくるかもしれない」と相談を受けたり、SNSで見たりすることがあるんですけど、すごく難しいなと思っていて。「クワロマンティック宣言』という論考(『現代思想』 2021年9月号 「特集=<恋愛>の現在 -変わりゆく親密さのかたち」に掲載されたもの)にも書いたんですけど、もともとどうやってクワロマンティックという語ができたかを調べていくと、英語圏のエース(アセクシュアル(asexual)の冒頭の音を切り取った言葉。英語圏のアセクシュアルのコミュニティでは、自分たちを指し示す言葉として用いられる)のコミュニティのミニブログの中での議論がきっかけなんです。その言葉を提案した人たちの主張によれば、「(クワロマンティックとはそう思われがちだけれど)友情と恋愛の違いが見分けられないということではないんだよ」みたいなことを言っていて。その人はもともと自分のことをアロマンティックとして定義していて、アロマンティックだときっぱり思えるときもあるけれど、そういうふうにアイデンティファイできないときにクワロマンティックと言っている、といったことを書いていました。そもそもクワロマンティックは、起源をたどると“WTF (What the fuck) romantic”っていう、「ロマンティックってなんだよ、くそ野郎」みたいな言い方がもとになっていたりします(笑)。

アイデンティファイするというのは、自分がどうやってそのラベルと距離を取って、そのラベルをどんなふうに引き受けたり引き受けなかったりするかということではあるので、他者がそんなに踏み込んで介入できるようなことではないんですけれども、一応概念としては、「クワロマンティックは、そもそも恋愛って何ですかと疑うこと」って説明するようにしています。

フツーの恋愛、性愛ってなに?『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』刊行記念トークレポ

中村さんが入門書としておすすめの本として教えてくれた『13歳から知っておきたいLGBT+』(著:アシュリー・マーデル、訳:須川綾子、発行:ダイヤモンド社/2017年)
という本では、アロマンティックのスペクトラムの中でクワロマンティックについても言及されている

羽生:例えば、同じ問いかけでも「“A”ロマンティックです」というふうに(否定を意味する「A」を強調して)、「ないんだよ!」って言いたいときもある。個人間の差異だけでなく、瞬間や場面によって違うということも当然ありますよね。

マジョリティがいわゆる“普通の人”ということではなくて、さまざまなセクシュアリティのあり方の一つである

続いて、マイノリティだけでなくマジョリティのことも名指すことで解釈の枠組みを変えていく話や、恋愛的惹かれの実践に関するポリアモリーの話を通じて、これまでの規範的な性愛について疑問が投げかけられます。

松浦:自分のあり方をうまく分類するということに加えて、もう一つ重要になるのが、マジョリティをラベリングするというアプローチだと思います。この本の中でも「アローセクシュアル」という言葉が出てきました。アセクシュアルではない人々、つまりセクシュアルな人々を指す概念ですが、「異性愛者/ヘテロセクシュアル」という概念などと近い効果を持っているものだと思います。マジョリティがいわゆる“普通の人”ということではなくて、それもさまざまなセクシュアリティのあり方の一つであるというような、解釈の枠組みを変えるインパクトを持つ概念だと読んでいて思いました。

例えば、日本でも特に二次元の性的コンテンツを愛好する人々の文脈の中で「対人性愛」という言葉が使われるようになってきています。生身の人間に対する性的な惹かれが自明なもの、デフォルトとされているけれど、それはマジョリティとされているに過ぎないということを明示しているんですよね。

羽生:「シスジェンダー」という言葉も、単純に出生時に割り当てられた性と自認する性が同じということを示すだけでなく、特定の人がどのように制度的な不利益をこうむっているのか、反対に特定の人がどのように不利益から逃れているのかということを示すためにつくられました。そういう意味では「アローセクシュアル」や「対人性愛」など、マジョリティの方を名指すという実践は昔からずっと続けられてきたし、またそれぞれの場面で続けられていくべきものなのかなと思います。

中村:『ACE』はいろいろな文献を引っ張ってきてくれているのが面白いんですが、第7章の「恋愛再考」では、一般的に恋愛的惹かれというものがどのようなものを内包していると言われているかについて、世界の人々を調査して抽出した文献が紹介されていて。一つ紹介すると、心理学者のヴィクター・カランダシェフという人が世界中の人々や文献などを再検討した結果、ロマンティックな気持ちというのは典型的には「惚れ込み、理想化、身体的かつ感情的な近さを欲すること、相手のために自分の人生の一部を変えること、そして相手が好意を返してくれなければより執着すること」 などが内包されると書いてあって。

わたしの視点からすると、広い意味でのアローセクシュアルの人たちはこれらを一つひとつ分けて考えないで、全部まとめて一つの恋愛的惹かれとして捉えることができているのが不思議に思いました。どうやってそうした実践ができているのか、ポリアモリーの関係性をつくっている方たちもかなり考えてらっしゃるんじゃないかなと思うんですけど、どうですか?

深海:そうですね、めちゃくちゃ考えていますね。ポリアモリーの中にもいろんな形があるんですけれども、例えば1人の人が2人の人と親密な関係を築いているという状態で、3人が一緒に暮らしていることがあるんですね。その場合、性を介していない2人もお互いをかけがえのない存在として認識しているケースが結構あって。

印象深い事例でいうと、ある女性Aさんは夫であるBさんとBさんのパートナーであるCさんと一緒に暮らしている中で、Cさんが他の人とデートすると言ったときに、夫よりも自分の方がジェラシーを感じたという話があって。AさんはCさんのことを「愛している」と言っていたんです。Aさんはもともと自分のことをヘテロセクシュアルだと思っていたけれど、そのような経験からバイセクシュアルかパンセクシュアルかもと考えるようになり、親友や恋愛パートナー、夫の恋人といったカテゴリーが全部ぼやけてしまったという話をしていて。このように、ポリアモリーの中にも性愛を介していない重要な関係性がかなり見られるんですよね。親密性という言葉には性的なものがくっついてしまいますが、それを取り除いていこうよと主張するポリアモリー研究者もいます。

フツーの恋愛、性愛ってなに?『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』刊行記念トークレポ

深海さんの本『ポリアモリー 複数の愛を生きる』(著:深海菊絵、発行: 平凡社/2015年)

アセクシュアルの解放は、みんなの解放に繋がる

『ACE』の第7章「恋愛再考」では、「アマトノーマティビティ(恋愛伴侶規範)」という言葉が紹介されます。哲学者エリザベス・ブレイクが、著書『最小の結婚–––結婚をめぐる法と道徳』でつくり出したこの概念は、一対一の恋愛関係こそが理想的なものとして強制されている現状を露わにさせました。アマトノーマティビティはテレビや本の中だけでなく、社会保障の給付や医療的決定を下す権利など、結婚したカップルに特権性をもたらす法的制度をつくり出しています。しかしそれは、本来結婚の一番の目的であるはずの「長期間の相互ケアや連れ合い関係」の条件を満たしている友人同士よりも、虐待が行われている婚姻間のカップルのほうを法的に保護することを意味すると著者は指摘します。

フツーの恋愛、性愛ってなに?『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』刊行記念トークレポ

「アマトノーマティビティ(恋愛伴侶規範)」という概念が述べられている『最小の結婚: 結婚をめぐる法と道徳』(著:エリザベス・ブレイク、監訳:久保田裕之、訳:羽生有希、藤間公太 、本多真隆、佐藤美和、松田和樹 、阪井裕一郎、発行: 白澤社/2019年)

中村さんと羽生さんは、アマトノーマティビティが働く社会は、実はエースだけでなく多くの人を苦しめている現状があるのではないかと指摘します。深海さんと松浦さんは、ポリアモリーやフィクトセクシュアルの視点から、性愛と結びつけられない親密な関係性や欲望のあり方を見ていく必要があると言います。

中村:わたしはアマトノーマティビティがつらいなと思ったから、クワロマンティックって名乗ってるところもあるんです。だけど、クワロマンティックだけじゃなくて、ポリアモリー、それからセクシュアリティ関係なくシングルの人も、アマトノーマティビティがこんなにも規範的に働いている世の中は厳しいだろうと思うんですよ。だからいろんな人たちが手を繋いでいくことの一つのきっかけにもなりうる概念でもあるのかなと思っていて。

羽生:3章にインセルとアセクシュアル男性の話が出てきます。著者はインセルを擁護しているわけではないけれど、強制的性愛とかアマトノーマティブみたいな規範がなければ、そもそもインセルがインセルとしてそんなに苦しむことはないだろうということもあると思うんですよね。主流の社会の規範の方にちゃんと目を向けたら、アセクシュアルだけじゃなくてみんなが救われるのに、と思うんです。この本の最後の方でも「アセクシュアルの解放はみんなの解放に繋がるんだよ」と言っていますが、それもアマトノーマティビティに対する問題意識があるからだと思います。

また、主流社会の恋愛観を絶対視するんじゃなくて、さまざまな親密な関係を保障していくというときに、ポリアモリーについて考えるのはとても重要だなと個人的に思うんです。その点、ポリアモリーの関係について研究なさってきた深海さんに伺いたいなと思います。

深海:エースとポリアモリーは一見するとすごく遠く見えるかもしれないんですけど、概念的にも近い部分はたくさんあると思います。先ほども、ポリアモラスな関係の中には性を介していない重要な信頼関係、親密な関係があると紹介しましたが、そのような人たちは自分たちの関係を性を介した関係より劣ったものとはみなしていないんですね。特定のパートナーシップだけに特権を与えるような、アマトノーマティブな社会を批判的に考察していく概念という意味で、エースとポリアモリーはすごく有効かなと考えています。いろんな関係を築くことができる、あるいは1人でいることを積極的に選択できるという可能性をすべての人に対して示唆していると思います。

松浦:例えば漫画やアニメなどの二次元の性的コンテンツで欲望を満たすのは、いわゆる直接的な人間同士の性的な接触や性交渉とは異なります。しかし、性の話をするとなったときには、いきなり人間同士の性や性行動、性愛の話になりますよね。それをアマトノーマティビティや強制的性愛の話に引き付けていくと、親密な関係などの人間関係と性行動や性愛を必ず結びつけるということが、セクシュアリティを特権化することに繋がっているという問題提起が含まれているのではないかと思いました。

フィクトセクシュアルという概念が日本のオンライン上でどう使われているかということを調査したことがあるんです。その中で「フィクトセクシュアルはセクシュアリティではなくて、むしろただの指向や趣味じゃないのか」っていう投稿が一定数見られたんですね。現在の認識の枠組みだと、セクシュアリティというものが性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)のことだけを指すのだと理解されがちなところがあるのではないかと思います。そして、まさにその枠組みこそがセクシュアリティを人間関係の紐づけで理解する強制的性愛、恋愛伴侶規範というものの、ある意味裏面として出てきているものとして批判的に考える必要があることなのではないかと思いました。そういう観点からも、このアセクシュアルを巡る議論は非常に興味深く重要だなと思っています。

この他にも、少しずつ分野の異なる4人のお話は、一つの概念や事象に対してさまざまな広がりを見せました。セクシュアリティに関わらず、「フツーの恋愛、性愛って何?」と問うことで集まり、恋愛規範を問い直すことができるのだと実感するような時間でした。

羽生有希

1987年東京生まれ。東京大学、東京工業大学ほか非常勤講師。国際基督教大学ジェンダー研究センター研究員。専門はフェミニズム哲学、クィア理論。著作に「コロナ禍の解釈枠組:脅かされる生をめぐるフェミニズム・クィア理論からの試論」(『福音と世界』2020年12月号)など。主な翻訳はアンジェラ・チェン『ACE:アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』(左右社、2023年)、エリザベス・ブレイク『最小の結婚』(久保田裕之監訳、白澤社、2019年、第1章および第2章を担当)。研究と翻訳を通じて、ジェンダー/セクシュアリティとアイデンティティ、親密な関係性について考察し、地元での実践に活かそうとしている。

中村香住

1991年神奈川県生まれ。慶應義塾大学文学部等 非常勤講師。慶應義塾大学大学院社会学研究科後期博士課程単位取得退学。専門はジェンダー・セクシュアリティ研究、文化社会学。レズビアン・クワロマンティック当事者として“恋愛至上主義にノれないセクシュアルマイノリティ”の居場所作りにも取り組む。共編著に『アイドルについて葛藤しながら考えてみた――ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉』(青弓社、2022)、『消費と労働の文化社会学――やりがい搾取以降の「批判」 を考える』(ナカニシヤ出版、2023)。共著に『ふれる社会学』(北樹出版、2019)、『ガールズ・メディア・スタディーズ』(北樹出版、2021)など。訳書にアンジェラ・マクロビー『クリエイティブであれ――新しい文化産業とジェンダー』(花伝社、2023)。

深海菊絵

1980年札幌生まれ横浜育ち。日本学術振興会特別研究員、国立民族学博物館外来研究員、明治学院大学非常勤講師。一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。専門は文化人類学。米国ポリアモリーに関する調査研究に従事。主著に『ポリアモリー 複数の愛を生きる』(平凡社新書、2015)、主要論文に「性愛のポリティクス:米国南カリフォルニアのポリアモリー社会を事例に」『官能の人類学──感覚論的転回を越えて』(ナカニシヤ出版、2022)、共著に『結婚の自由:「最小結婚」から考える』(白澤社、2022)など。

松浦優

1996年福岡県生まれ。九州大学大学院人間環境学府博士後期課程在籍。専門は社会学・クィアスタディーズ。「二次元の性的表現を愛好しつつ、生身の人間への性的惹かれを経験しない人々」についてのインタビュー調査や理論研究を行っているほか、アセクシュアルに関する論文も執筆している。共著に『フェミニスト現象学――経験が響き合う場所へ』(ナカニシヤ出版、2023年)、主な論文に「抹消の現象学的社会学――類型化されないことをともなう周縁化について 」『社会学評論』74巻1号、「アセクシュアル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向――仲谷鳰『やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」『現代思想』2021年9月号(特集=〈恋愛〉の現在)などがある。

『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』

著者:アンジェラ・チェン
訳者:羽生有希
発行:左右社
価格:2,750円(税込)
発売日:2023年5月19日

ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと | 左右社 SAYUSHA

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