12月31日。今日までの毎日を、365日を、振り返らずにはいられない日。手元には、今年もまた生き延びた、という感覚がある。それくらい毎日が簡単じゃなかった。季節が巡る間になにがあったのか具体的に思い出そうとすると、できなかったことばかりが浮かぶ。それはあくまでくせのようなものだとわかっていても、毎年毎年、年の始めと誕生日と年の終わりの周辺はひどくナーバスになる。
今日もまた、日記をつけようと文章を書き始めたはいいものの、書き進められない。どうしても「上手くまとめよう」「終わりよくしよう」と思ってしまっては体がこわばる。こういうときは、力を抜くためにできるいくつかのことを。ひとまず、人に見せない文章を書く。ばらばらと、書き途中のままだったいつかの日記の続きを書いたり、最近観た映画の感想を書いたり。あとはたとえば、人に見せない写真や映像を撮ったり、人に見せない踊りを踊ったり、人に見せない歌を歌ったりする。それらは、まず他人の視線から解放されるために必要であり、それ以上に、他人にどう見られているかをキャッチしようとしてしまう、自分の視線から解放されるために必要でもある。止まったり、戻ったり、帰ったり、守ったり、やめたり、ほどいたりするのも悪くないと思えるようになったのかもしれない。撮った写真を現像して見てみることで出会い直す光がひときわかがやくように、ディレイが大事なこともある。相変わらず混乱していることも多いけれど、そうして生き延びてきたのだと思い出す。
お昼は家族とラーメンを食べに出かけて、午後は弟と写真を撮るために、家の近くの川まで歩いた。瞬きをすると、風にさらされていた睫毛やまぶたがぶつかってひんやりと冷たい。そういえば、今年いちばん多く撮ったのは弟と妹かもしれない。そのほとんどが家の庭や、敷地内にある青い壁のスタジオ、近くの道端や川辺で撮った写真だ。こんなに家族や地元に目を向ける日がくるなんて、思いもしなかった。小学校高学年の頃にはすでに家を出たいと思っていたし、中高と家から少し離れた学校に通って、休日も遊びに行ったりレッスンや稽古に行ったりしていた。ひとり暮らしを始めるまで地元がきらいで仕方なかったので、反動もあったのか1年目はほとんど実家に帰らなかったように思う。3年目の今年はたくさん帰ってきたので、山に囲まれた地元の、季節ごとに変わる緑の彩度に気づくことができた。年末も忙しないながら、散歩したり窓の外を眺めたりする時間をつくって、冬の澄んだ空気でひときわ綺麗に移り変わる空の色を喜んだ。
書きたいことが次から次へと溢れる。書き残したことがまだまだある。だけど、心残りもそのままに、なんとなく、あらたな年を迎える準備ができてきたような気がする。