1月27日
日記を書くにあたっての自分への注意点を年始の日記に書いたが、それを収めたMacBookは家のデスク横に積み重ねた本の上にあり、読み返せないのはマクドナルドの2階の窓際のカウンターに座ってこれを書いているから。窮屈な店内のカウンター席はとくに間隔が狭く、隣に座る人と肩が触れかける。皆ダウンなどの厚着で身体が膨らんでいて、並んだ背中は母兎の乳に群がり押し合いながら飲む子兎達のよう。右隣の女性がかじり付いているホットアップルパイも、わたしがかじり付いてもなにも問題ないような気分になる。
注意点というのは、「振り返って鬱々とするような、悲しいだけの日記を書かない」のような内容だったと思う。
悲しみに浸らないこと。わたしは気をつけないと自分で自分の頭を押さえずぶずぶと悲観的な方へ沈んでしまうときがある。
なにか辛いことが起きて悲しむこと自体は自然なことで、回復するために自分の悲しみの正体を見極めようと傷口を観察し、その原因を探ることも良いことだと思う。しかしわたしは傷口を無闇にいじくり、悪化させるようなことをこれまで度々繰り返してきた。自然治癒する可能性のある傷までも重傷にさせ、隣で絆創膏を渡そうとしてくれる人がいるのに気付かないときもあった。
自分から進んで悲しみに浸かろうとして、誰が嬉しい気持ちになるだろうか。悲しい記憶を日記に再現し、それを読んでまた悲しくなることにようやく疲れを感じ、飽きた。底の見えないプールに「努力して」潜り続け、結果たどり着いた底にはなにもなかった。力が抜け、浮力で身体が浮かんでいく。
悲しみを悲しみのままにしないこと。それは日記に限らず、あらゆる状況で。
顔を上げる。身体を翻す。反抗ではなく包み込む。自分自身の悲しみを、浸るものではなく扱うものにする。手にとって、ちぎって並べたり、遠くに投げてもいい。調理して食べてみる。臭みが強ければ下ごしらえの方法を変える。美味しそうなものがテーブルに置かれて初めて他人は食べてみたいという気持ちが湧く。
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行くと既にKさんが油絵を描くセッティングをしてくれていた。二人が打ち合わせをしている隣のテーブルで油絵を描き、三人で晩御飯を食べ、また少し描いて帰った。
去年から油絵具に触りはじめたが、いつもの鉛筆や墨汁を使った「描く」とは全く違い、いまのわたしは絵具で「遊んでいる」としか言いようがない。明確なものがなにもない。自分が何を描きたいのかもわからない。ただ「いい色」があらわれるために手を動かす。このわからなさには言葉を当てず、そのままにしておきたい。わかるのは色彩が自分の身体に満ちてゆくこと。それを今の自分は必要としている。
時々ぼんやりとイメージがあらわれ、かたちにしようと試みるものの、心のどこかでそのイメージに本当には惹かれていない自分がいる。焦りがもたらす安牌なそれだと気づかれているのか、単純にかたちがよくないからか、Kさんに「まだかたちにしなくていいですよ」と声をかけられる。そしてまた絵具を拭ったり筆で溶かしたり他の絵具を重ねると、さらに「いい色」があらわれる。
一方で、絵というものがもう自分自身と切り離せないものだからこそ、いま新しく生まれかけている絵との関係を手放しで受け入れてはいけないとも思う。自分にとって絵が良いことも悪いことも招く存在である以上、油断してはいけない。良いものを感じているとき、自分の抱える一種のコンプレックスの解消をそこに見てはいないか精査する必要がある。解消なんかに使って良いものではない。色彩に身を任せるのは良い。しかし委ね切らず、必ず戻ってくること。往復で考えること。