全身が筋肉痛だ。アイアンメイデンのような鉄の女状態で、ぎしぎしと軋んでいる。でもこれは心地良い痛み。身体は思うように動かないけど、頭が見知らぬ国へトリッパーしていて、難しい脳内会議や仕事を拒否する覚醒ゾーンに突入。今日は仕事をボイコットすると決意。(つまり、お布団にin!)
こどもの頃、その日あった愛おしい夢のようなできごとを覚えていたくて、眠りたくなくて、こっそり夜中に外に出たことが何度かある。今日はそういう興奮状態で、昨日あったできごとを白昼夢として舐りたおすことにした。
昨日は某所で野宿している、いちむらみさこさんや小川てつオさん、ホームレスの人たちがやっている物々交換カフェ<エノアール>へ遊びに行った。“謎のヨガインストラクターRYU★CO”さんによるヨガの日で、下のきょうだいのsuper-KIKIちゃんと友人のYさんに誘われてて、ずっと行きたかった場所。仕事と社会運動で頭とカレンダーがめいっぱいぎゅんぎゅんの連続だけど、一日だけ確保したスペシャルホリデイ。
RYU★CO(KOじゃなくてCOなのがポイントらしいです)さんのヨガはゆるゆるで、「レクチャー」とは全く関係ない自由な動きをする人、いつの間にかスヤア……と寝てしまう人もいた。女神のポーズがハイライトらしくRYU★COさんのキメ顔が面白くてひとしきり笑ったりと、とにかく私が知っているあんま好きじゃないヨガとはまったくの別ヨガだった。(受講者が自由な動きをすることで怒るヨガインストラクターもいるって聞いて驚愕である……)
のびーっとしながら寝転んだら、体についた泥や落ち葉とか、地面に吸い付いていくわたしの身体とか、久しぶりに見た木々の隙間から見える、高くてすきとおった秋の空とか、あたりまえのプリミティブさにガーン。肩こりがちがちの毎日とは違う感覚を味わってしまった、ちょろすぎるわたし。
仕事と社会運動の忙しさを伝えた時、「幸せな悲鳴だね」と言われたりすることもあるけど、「んなわけねーだろ」(RYU★COさんはこんなに口悪くないが)とぶん殴ってくれる空間がそこには広がっていて、その場所を独り占めしたくなくて、あの人やあの人を連れてまた来たい、お裾分けしたいって思った。
エノアールはもしかするとまぼろしだったかもしれない、と錯覚してしまう場所にある。草むらをわけて、突然現れる。メニューもよくわからない。KIKIちゃんが前に<なぞ茶>を頼んだと言ってたのでそれを頼もうとしたけど、今あるのは<だめ茶>らしい。ダメとは・・? と、一瞬ひるむが<だめ茶>とやらを頂く。これは一体・・・? 思ってたんとだいぶ違う味だけど、寒いからか、なんでもおいしい。あと、お味噌汁も頂いたけど、なんでだろう、みんなで食べてるから? めちゃくちゃうまい。具がなぞだけど(日はとっぷり暮れていたので暗くて見えないし、味噌汁だったかもわからない)。
エノアールカフェは物々交換のため、家にたくさんあった葛根湯を持っていく。とても喜ばれた。「各人は能力に応じて働き、各人は必要に応じて受け取る」ようなコミュニズムのスローガンよりも(おそらく)ゆるいシステム(ちなみに、わたしは「能力」という規定も、呼吸とか、生きてるだけとかも含まれる可能性を考え中)。
わたしが今、歯の治療が大変すぎて医者からキシリトール噛めって言われてるため、健康にいいかしら、と持っていったBTSパッケージのガムに、はじめましてのMさんがすごい反応して「この大学生、顔がいい」とやたら褒めてくれた。BTSに大学生は誰もいないが、個人的には31歳(韓国年齢)のジンさんはもはや「永遠の大学生」だと思うから間違ってない。そしたらいちむらさんが「顔のことあんまり言うのはちょっと、ねえ?」とすかさず突っ込み。うん、そのとおり、さすがだ。いちむらさんが言うと不思議と全然きつく感じないので羨ましい。いちむらマジカル。Mさんは「わたしは女の人の顔のことはあれこれ言わないよ」と反論してて、すごく笑えた。そうゆうこっちゃないけど、なんかわかる気がしてしまう……。この時のわたしはルッキズム批判ポリコレ閉店中だったため、右から左へ流してただ笑うのみ。田中美津さんが「24時間フェミニストって人いないでしょ?」って言ってたしね。『とり乱しウーマン・リブ論』は、顔と膝をつき合わせて矛盾が発生する現場でつくりあげられたものだ。正論と、赦しと、ぶつかり合いのごった煮。
月が登ってきたころ、茂みから突然、ガサガサっやっほー☆彡っと飛び込んできた人が、「こないだ欲しいって言ってからZINE持ってきたよ」と友人のYさんに声をかける。あとからYさんが「たぶん初めましてだけど……?」とボソッと言っていたけど、そんなことはYさんも誰も気にしてはいなくて、とりあえず表紙からして面白そうだったので買う(そしてこの勘がドンピシャだったので後述する)。500円のワンコイン。
縮こまってギリギリ歯軋りしてた心がどんどんほぐれていって、ロラン・バルトの“裂け目=プンクトゥム”はここにあると確信する。これが自由ってやつかもしれないスペシャルな時間を過ごした。アフリカ系アメリカ人の公民権運動を扇動する曲も作り、自由と黒人ルーツを求めてリベリアへと移住したピアニストのニーナ・シモンが、ドキュメンタリー『ニーナ・シモン〜魂の歌』で「言葉にはできない」と前置きしつつ、「自由とは、恐れがないこと」と語っていた。この「恐れ」「恐怖」はとても厄介で、人は恐怖に駆られて差別をしたり、いじめをしたり、分離主義に走ってしまう。
以前いちむらさんに恐怖を乗り越える方法を聞いたら「ない」って答えが返ってきた。「公衆トイレに入った時、この穴は何? というのを見つけた瞬間に恐怖が襲ってくるんだけど、そこから逃げるっていうよりは穴になんか詰めたり、そもそも穴って何? とか考えるとか、距離をとって飼い慣らす」みたいなこと言ってて、すげーな、なんかジュディス・バトラーみたいなこと言ってんな、と思った。逃れられない権力の網の目から、変化する主体としての可能性。恐怖は攻撃と表裏一体だから、飼い慣らしたり、意味をずらしていく訓練をしたい。訓練とか、すぐ好戦的なマッチョなこと考えるのがわたしっぽい。でも、大好きなニーナ・シモンも『ミシシッピ・ガッデム』という曲を作った理由として、汚い罵り言葉は、黒人男性も言わなかったけど、女性が使う暴言の重要性をあげていたので、マッチョをすべて悪魔化しないで文脈をみてほしい。
エノアールで出会った人たちや会話のおかげで、ちょっと信じられないくらい呼吸しやすくなったので、この時間と場所が続いてほしい気持ちを込めてほんの少しだけカンパをした。でもそれが言い訳になってはいけない。映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』のパンフレットでケン・ローチがこう書いている。