私には一人の時間になぜか暗がりが必要なようである。ほんの少しでも時間があれば、電気を消してお風呂に浸かるという習癖がある。
そもそも私は昔から明るすぎるのが苦手だ。いまの都市は明るい。店内の蛍光灯は煌々としすぎるし、スーパーマーケットの電灯は過剰に白く、食品を嘘ものであるかのように照らす。ネット上にも暗がりは少ない。皆があからさまに自己を開示し、すべてが光の下に差しだされ、断罪されたり祭りあげられたりする。ときおり開陳される、他者の闇のような無意識のつぶやきも、架空の空間に集合しているかぎり、本当の闇ではない。書けることは本当の無意識ではない。
光に吸い込まれる蛾の反対で、暗がりに吸い込まれる私という虫は、何を求め闇にまぎれようとするのか。うす暗いお風呂に爪先からそっと足を入れる私は、いっときこの世から離れたいのかもしれない。それは子どもに自分を差しだし尽くしている、その溶けきった自己の壁を一人の自分に戻す作業のような気もするが、闇のない現代社会に子どももろとも置きざりにされ迷子になっている、その自分を呼びよせる作業でもある気がする。
夜中に電気を消してお風呂に入ると、台所の灯りからもれる光だけが差しこみ、水面が暗くゆらゆらする。見つめていると、しだいに生物としての自分の感覚が澄んできて、自分が自分に戻っていく感覚がある。私は、こういう生ぬるい水のなかから生まれてきた。そこにはたくさんの人間たちがいて、たくさん祝福されもし、自分一人ではなにもできない赤ちゃんである私は、たくさんの手のなかで育ってきた。多くの人と同じように。けれども、いつでもこうして一人だ。差しだされた手と同じように、私はいま一人ではなにもできない存在に手を差しのばしている。だけれども、一人だ。その真実は、堅い岩盤のようにゆるがない。それを暗い水のなかで撫でるようにたしかめる。
これは一つのイニシエーションなのかもしれない。すべてが意識下で行われる世界から離れたいという願望のあらわれのように感じる。すべてを知りえること、なにもかも知っていると思うこと、知っていることを増やすこと。人は成長というとそんなイメージを持つかもしれない。しかし本来は逆ではないか。いえむしろ逆でありたいと思う。自分はなにも知らない、何もわからない、何も見えていない。不可視の領域の大きさ、不確実なものの広やかさ。意識化におくことができない、自分のなかの無意識の領域の深さ。暗がりとは、そういう「不可触」なものの象徴なのだろう。
暗い水のなかにいると、闇の領域が自分のなかに広がっていく。あるいはもともとあった闇の部分が、せりあがってくるのを感じる。たぶんそれが私には快感なのだ。不可触な闇に浸りたいという欲求が、大人になればなるほど高くなっている。私はどこかで快楽主義者なのだろう。
暗がりの体験は他にもあって、一つには夜の散歩がある。それも風が強い日はなにかに導かれるように、のそのそとパジャマを着がえ、めんどうくさいと思いながら、それでも外に出ていく。近くにけやき並木が長くつづいていて、そこをひたすら歩いていく。夜の闇に木々がまぎれ、そこに風が吹きすさいでいる風景を、ひたすら目に焼きつけ歩いていく。馬を飼っている馬場が少し先にあって、そこでしばらく厩を眺める。あたりは暗く、厩の扉はしまっているので、馬の姿は見えない。きっと馬が寝ているであろう気配だけ察知して戻ってくる。想像上の馬の寝姿は、映画のような鮮明な映像となって頭のなかに流れる。その映像を再生するようにして、もと来た道を引きかえしてくる。
あたたかい寝室には子どもたちと猫の寝息が対流し、濃密な空気を作っている。もう一度パジャマに着がえて、かろうじて空いているスペースに体を潜りこませる。目を閉じてもまぶたの裏では、暗い厩で馬が眠っていて、静かな寝息をたてている。そのことが私を妙に落ち着かせる。想像上の馬の寝息と、この部屋の生物たちの寝息がまじりあう。
自分の体という脱出できないかたまりを、私は暗さのなかに解き放っているのかもしれない。その否応なさを、暗がりのなかでたしかめながら。