はじめに
いま私の生活は他者に投げ出されている。上の子が6歳、今年生まれた赤ちゃんはもうすぐ1歳になる。二人とも園に通っているので、昼間にかろうじて自分の時間はあるが、こなすべき仕事にあて、ときには小一時間かけて通勤し、生活を成り立たせるための穴埋めのような作業――たとえば各所の予約や、足りない食品や生活用品の手配――をしていたら、あっというまに夕方になる。子どもたちを迎えに行けば、そこから時計は不可逆的に前に進む。夜ごはんの準備をし、食べさせてからお風呂、洗濯、洗い物、明日の準備などをしていたら、もうかき集めても砂のように乾いたエネルギーしか残っておらず、子どもたちを寝かしつしているあいだに、自分も一緒に寝てしまう。
そして数時間後、目が覚めるのだ。深く寝たので、一瞬どこにいるのかわからない。部屋はまだ真っ暗で、子どもたちの寝息がかすかに聞こえてくる。ああ、一人だ。ここから朝焼けがはじまるまでの数時間、私はふいうちのようにぽっと現れたこの自分の時間を、たしなむように味わってきた。それは、まるで障子にあいた穴のようにどこか寂しげで、スースーした、どこにもつながらないあっけらかんとした穴だ。私はこのあっけらかんとした穴のなかで、一人だったころの、私が誰をも腕に抱きとらず、自分一人の孤独を抱きしめていたころの「私」に戻る。いや、そのころの自分を思い出そうと、もがく時間になる。
このエッセイは、夜中の私が「自分を思い出す」ことになぜか必死になっている、その時間を書き取っていこうと思う。まだ子どもを産む前の、一人だったころの自分を思い出すことは、私が私の感覚を守ろうとする、イニシエーションのようなものなのかもしれない。
前作『マザリング』は、子どもという、自分のなかから出てきた「他者」に自分が開かれゆくことの驚き、自己の壁が溶解することの苦しさと烈しさ、そして愉悦を書きとった。でも、赤ちゃんを抱きしめながらつねに私は、自分はたった一人で死んでいくんだと怯え、怯えながらもその自由のなかで自分を燃やしていたころの「私」を忘れたことはなかった。一人で存在する自分と、皮を剥くように一枚一枚他者に向かって開かれていく自分、この両極はまるで並行世界のように別々に存在している。
あなたは必ず誰かの子どもで、だから母の孤独は寂しいものと映るだろうか? 否、母の孤独は母を育て、母を守る。孤独とは発見するものではなく、あまりにあからさまな前提条件だ。どんなに家族が増えようが、誰かと親密な交流が起ころうが、そのすべては孤独という前提条件のもとに現れ、人はまた、たった一人の孤独に戻る。だからこそ寄りかかりあえたときの奇跡が人を靭く育てるのだと。決して逆ではないだろう。寄りかかりあうことの前提があって、その上に孤高や孤独があるわけではない。その事実の粛然とした輝きを尊敬しよう。
ときおり街で見知らぬ人々を見て感動する。赤ちゃんも老人もみな一人で自分の孤独を抱きとめている。なんてすてきな。私はたぶん子どもを持ったことで、より一層自分の孤独を鍛えあげ、逍遥し、あたため、守り、慈しんできた。その時間をこそ、書き取っていこうと思う。