5月30日は、神戸の海に近いホテルで目覚めた。いつも来る時は交通の便利な駅の近くに宿を取っていたけれど、今回は何となく離れた、行ったことのない場所に行きたいと思った。
ホテルの窓からは遠くの方に山も見えて、そこに夕方は陽が沈んでいくのが分かる。
朝起きると、友人からメッセージが届いていた。iPhoneの中のメッセージだったけれど、普段よく文通をしている習慣があるからか、手紙で受け取ったような気持ちになる。
窓辺のテーブルに座って、そのメッセージを開く。人に気持ちを伝えることについて話していた。私もそのことについて最近よく考えていたのだ。
神戸に来ると立ち寄るお店がある。と言ってもまだ数回しか行ったことがない。
今回もその喫茶店に行った。
マスターのおじさんは茶目っ気のあるやさしい人。
私を覚えているわけではないのだけど、彼はお店に来る人々への接し方がとても均一で自然なので、初めて来る人にも、ゆっくりした口調で「ドアが壊れちゃって」と話しはじめる柔らかな人なのだ。小さな店内も含めて、何十年も前から知っている空間みたいに、不思議なんだよ。
サイフォン式で入れてもらったコーヒーを飲みながら。
「今の時代はしきたりよりも、自分が楽しいと思える人生を過ごすことが、主流になってきたよねえ」という話をしていて、彼は自分のお母さんの話をしてくれた。
「僕はね、お母さんにこう言われていた。結婚しなくても子供がいてもいなくてもいいから、相手が詐欺師だとしても何でも、大恋愛をしてから死ぬのがいいよ。そういうのを経験してからじゃないと死ねないよ。ってね」
そんな話をするお母さんがいるんだなと笑った。
マスターは、このお店の壁を見つめながら話すのが素敵。
私も、様々な人が踏んだであろう茶色い幾何学模様の床を見ながら話したり、店内の少し崩れそうな入口を眺めてみたり、何となく真似していた。
この空間は特別だ。
私は去年自分のお父さんを亡くした話をした。
マスターは少しにこやかないつもの顔色を変えずに、そうか、と細い店内の壁を見ながら話を続けた。
このお店は、古びていながら、どこか絶妙なバランスで整っている。「店内が完全にフランスやった」とフランスに住んでいたことのある友人がここを教えてくれて、行きはじめたんだった。
物はそんなに多くない。写真を撮ったことがないのでうろ覚えだけど、白い壁、サイフォンコーヒーの器具、大きくも小さくもない白いコーヒーカップたち、誰かがくれたであろうカレンダー、焦げ茶色のカウンター、備え付けの丸い席は5個くらい、クリーム色だったか黒だったか忘れたけど電話がひとつ。
コットンの白いシャツを着たマスター。
ここのところ、古いものをどんどん好きになっていっている。例えば、映画とか服とか建築とか、物とか。なんでだろう? と考える。自分の手や顔をたまによく見てみると、前よりも皺があったり年月の進みを感じる。
いいなと思う古いものは、年月の中で沢山使われても、誰かに大切にされてきたり、そのもの自体が大切に存在して生きてきたもの。街や景色もそうやって残されていく。
歳をとっていく中で、そんな愛らしい古いものたちのように、自分は自分を大切にできるのだろうか? とも考えてみたりする。
マスターは、話の中でたまにこちらを見て歯を見せてにかっと笑う。
その笑顔は何だかすごく伝わってくるものがある。ここにいて、ほっとできる自分に自信がつく。
人と出会うと、その人だけでなくその人と親しい人たちの話を聞いたり、その人が大切にしているもののことをふと知ったりして、見えないものの存在を感じる。
レコーディングを終えてホテルに帰る道、夜の海が見えた。辺りは真っ暗、人は誰もいなくて、道には2匹の猫だけが座っていた。
誰かがいつかこの場所でそう思ったように私も思う。
この海の向こう、どこか遠く、あなたがいるのよね。