2022年3月11日 はれ
午前8時30分。計画的に寝坊した。
午前中は特に用事を入れていない。まだ寝ていられる。しかし空腹の猫たちにせっつかれて布団から出る。
電灯、ストーブ、洗面所のオイルヒーター、コーヒーメーカー、こたつ、と順番にスイッチを入れていく。変わらない動線。今年の3月11日は金曜日だと、ラジオをつけて知った。
神棚の水を交換し、猫にごはんを用意する。人のごはんはその後だ。
パンを焼きスクランブルエッグの卵液をフライパンに流しこむタイミングで、高校生の娘が部屋から降りてくる。名前は桜子、髪の色も桜色、16歳。
「おはよう」
「おはよう」
チーズをのせてこんがりするまで焼いた食パンにハムとスクランブルエッグをそえ、食卓に出す。
「いただきます」
「いただきます」
朝食が終わり、食器を洗う娘に「今晩食べたいものある?」と尋ねる。
夕食の献立は朝、あるいは前日のうちに決めておく。ざっくりと1週間の献立と買い物の計画を立てることもある。夕方になって思いつきで決めた献立の手順に「たれに1時間以上漬け込みます」「弱火で2時間煮込みます」「半日程度寝かせておきます」という文言を発見した途端に「詰み」なのだから。
「ぶり大根かな」
ぶり大根、は意外だった。
ほとんど作った記憶がない。理由はふたつ、まず魚の血合いや臭みをとったり大根を面取りしたり米の研ぎ汁で下茹でしたりと、下拵えに思った以上の手間がかかる。
もうひとつの理由は、おこぼれを狙って料理中の足元で隙をうかがう猫たちだ。魚料理となると目の輝きが違う。少しでも油断すれば「お魚くわえたドラ猫」を追いかけるはめになる。なので、手間のかかる魚料理はついつい避けてしまう。そしてそもそも、桜子は煮魚があまり好きではなかったはずだ。
「ぶり大根、好きなの?」
「うん」
「あまり作ったことないけど」
「そうだね」
「好きだったんだ、ぶり大根」
「うん。好きになった」
食に限らず、子どもの好みは難しい。親の知らぬうちに好きだったはずのものが嫌いになり、苦手だったものを好きになっている。好きな物が増えていく、わけじゃない。キャパシティは大して増えない。ただ対象が変わっていくだけ。
幼いころ、私は甘海老のお刺身が好きだった。お刺身や手巻き寿司が食卓にのぼると、甘海老ちょうだいとしつこく大人におねだりした。いつだったか、父方の祖父の家に親族が集まって、寿司をとった時だ。私はまだ小学校にあがる前だったように思う。並んだ寿司桶から、祖父は甘エビの握り寿司を数個皿に取って、箸で海老の尾をちょいっとつまんで持ち上げ、左手に持った小さじでワサビを丁寧にはがしとり、その皿を私に寄越した。「ほら、麻里香は甘海老が大好きだからおじいちゃんの分もやろう」そういった祖父に私は「私、もう甘海老好きじゃないの」と言った。だって、もう甘海老は好物ではなくなっていたから。ある時突然、「甘海老が好き」という気持ちをすっかり忘れてしまった。どうしてあんなに好きだったのか思い出せなくなってしまった。だからそう祖父に伝えた。好きな物が変わった、ただの変化を伝えただけだった。祖父がどんな顔をしていたか、なにを言ったのかは覚えていない。ただ、一連のやりとりと見ていた父からは叱られた。そして大人は嫌いなものが好きになると喜んでくれるのに、好きな物が好きじゃなくなるとひどくがっかりするらしいことを知った。私にとってはただの変化なのに、大人にとっては「期待はずれ」というネガティブな意味合いを帯びるものらしい。解せないまま私も大人になって、また甘海老が好きになった。
そんなことを思い出した。
ぶり大根が好きになった桜子だが、半年前まで喜んで食べていた麻婆豆腐は「今はちょっと苦手」だという。小学生の頃には毎日のように食べたがっていたいちご味のチョコレートやフルーツゼリー、大好物だったカニクリームコロッケも「もう好きじゃない」らしい。トマトは「前ほど好きじゃない」になり、毛嫌いしていたセロリは生で食べられるようになった。
変化に成長という名前をつけたとたん、大人の期待や願いが織り込まれてしまう。ただの変化なら、そのままに受け入れられる。気分も好き嫌いも熱中する対象もスイッチのオンオフも描く夢もリトマス試験紙のようにころころと変わる16歳との同居を互いに心地よいものにするには、「成長ではなく変化」という眼差しはなかなかに有用なのかもしれない。
11時ちょっと過ぎ。原稿にとりかかる前に買い物を済ませようと、スニーカーをはいて家を出る。玄関のわきにおいた段ボール箱が目に入った。中に敷いた毛布に、黒と白の毛がついているのを見つける。手で触れるとわずかにあたたかい。箱のわきに置いてある底の平たいボウルは空っぽになっていた。昨夜補充したキャットフードを静かに完食した誰かさんは、どこかよそを散歩中のようだ。
我が家には現在6匹の猫がいる。家の中には3匹。年長のキジトラは5年前にNPOから引き取った保護猫、2番目のハチワレは昨年友人が拾った野良猫、甘えん坊の末っ子は家の周りを鳴きながらうろうろしていた子猫で、玄関をあけたらとすーっと入ってきてそのまま居着いている。そして外にはキジトラ2匹とハチワレ1匹がやってきている。なんとか動物病院にだけでも連れて行けないものかと接触の機会を狙っているのだが、今のところ「ちゅーる」の距離以上に近づくことができないでいる。
ボウルにキャットフードを補充し、運動がてら徒歩でショッピングモールへと向かう。早歩きで片道10分ほどの距離。あたたかい。足元では枯れ草の隙間から、淡い緑色の芽がこちらを覗き見ていた。5分も歩かないうちに背中が汗ばみ、マスクが苦しい。つい数日前まで雪が降っていたのに、東北の春はいつも突然やってくる。しれっと行列に割り込んでくる迷惑な客のように、「ずっとここにいましたよ」という顔をして、気づいたら後ろに立っている。そしていつの間にかいなくなる。見上げると、空からは昨日までのキリリとした透明感が失われようとしていた。春の仕業だ。電線で区切られた空を思わず写真におさめた。